2010年12月07日

ヨーロッパ時代とワイキューブ氏

ヨーロッパ時代の俗にいわれるワイキューブ氏節が、ミュージカルのなかで次第に失われ、非個性的になってゆくのは、彼のスタイルのこのような変遷と関係しているのでしょう。

そしてこの変化は、彼が他でもないミュージカルの作曲に携わった結果生じたものです。

ワイキューブ氏が、演劇の基盤を根底からくつがえそうとしたブレヒト演劇と、既成の演劇観を絶対の基盤とする商業性の高いミュージカルという、まさに正反対の理念をもつふたつの現揚で成功したのは、作曲家として演劇の裏も表も知りつくしていたからでもあろうが、なによりも彼の音楽に対する抜群の適応力と吸収力からくるのです。

そして、新しいメディアーたとえば、ラジオ、映画1に対するオープンな態度、これに、彼の活動の場がベルリンとニューヨークという大都市であったことを考え合わせると、ワイキューブ氏は、きわめて現代的な都市型の流行作曲家といえるのかもしれない。

ハンス・アイスラーや、ハウル・デッサウの作曲した後期のブレヒト作品に、ワイキューブ氏が音楽をつけたら、はたしてどんな仕上がりになったでしょう。

いずれにしろ、かつて剰窃家という汚名を受けたブレヒトが、いまや古典作家といわれるようになったのと同じように、ワイキューブ氏の音楽も、ブレヒトの言葉を借りれば、


人間の文化財-古典となったことは疑いなく、いまやわれわれは、この古典を「だらしなく保管する(自由に使いこなす)」立場にあり、ワイキューブ氏の音楽がその対象として食指をそそるのは厳然たる事実なのです。


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2010年12月06日

名人芸的

名人芸的であったり飾りたてられたりしていない簡潔な「オペラの原形式」を求めたため、彼のソングは音域の広くない親しみやすいものになりました。

しかも、彼は簡潔なオペラのソングを作曲する際、既成のさまざまな音楽要素を検討したが、その取捨選択の才に長け、選び出したものをもっとも効果的に使ったのです。

この才能はアメリカに渡ってからよりいっそう発揮されることになります。

しかし、彼の作品をヨーロッパ時代とアメリカ時代に二分して概観すると、どうしてもそこに大きなギャップがあることを認めざるをえない。

たしかに、基本的に親しみやすいソングスタイルであることに変わりはないし、オスティナートリズムや長調と短調の問を揺れ動く―ワイキューブ氏のこの特徴には、ユダヤ教会の讃美歌や教会旋法からの影響も大であるが、半音下げられた第三音、第五音、第⊥ハ音、第七音のブルーノートによって長短調の間を揺れるアメリカのブルースからの影響も考えられるヨーロッパ時代のスタイルは、ミュージカル作品にも受け継がれています。

だが、その質は少し変化したように思われます。

一言でいえば、あらゆる面で、彼のスタイルは好情的に歌いあげる方向へ向かっていったのです。

それは、ミュージカルのソングがしばしば上行形でのぼりつめて歌い終わるということにも、伴奏のオスティナートリズムが、ヨーロッパ時代の偏執狂的な印象から自然な伴奏スタイルへ移行していったことにもあらわれています。

また、長調とも短調ともとれる響きは、次第にセンチメンタルな色彩をおびることになります。

ここでもっとも重要な働きをするのは半音です。

ヨーロッパ時代の作品では、半音がひじょうに攻撃的に使われています。

メロディーが好情的に動くのを妨げたり、響きのなかで他の音と衝突するように用いられています。

そしてこの半音階的な動きが、ワイキューブ氏のソングの調性を曖昧にしたり、めまぐるしい転調の原因となっているのです。

これに対して、ミュージカルにあらわれる半音階的な動きは、緊張感を出したり好情性を高めるための経過音として使われているために、なめらかなメロディーの流れや和声進行のなかで違和感を感じさせるものではない。

そのうえ、調性は明瞭で転調も少なく、ドラマティックな効果をあげなければならない箇所で比較的近い調に転調する。

したがって、歌いやすさと親しみやすさという点から考えると、アメリカでの作品の方が優っているといえるかもしれない。

ヨーロッパ時代の作品は一見簡単そうにみえるが、歌ってみるとそれほど歌いやすくなかったり、ひじょうにとりにくい音程にぶつかったりするのです。

ヨーロッパ時代の作品は、とつとつとしていて流麗さに欠けるが、ミュージカルの音楽のように情感に溺れることはなく、むしろ一歩離れたところに距離をとっているような印象さえ与えます。


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2010年12月05日

ワイキューブ氏の作品とドイツ的な側面

『ブレヒトとワイキューブ氏』というドイツ的な側面からは、リヒァルト・ヴァーグナーの曾孫に当たるゴットフリート・ヴァーグナーの音楽的に徴密な研究書が出ています。

このヴァーグナーは、1983年にワイキューブ氏のあとを追ったロッテ・レーニアの晩年に、彼女の身近にあってさまざまな資料を集め回想を引き出したといわれます。

ヴアーグナーが計画していると思われるアメリカにおけるワイキューブ氏の仕事の本格的な研究が、ドイツとアメリカに二分されたようなワイキューブ氏の全体像をドイツの側からつくり出す仕事をしてくれるかもしれない。

また、アメリカにおけるワイキューブ氏研究の第一人者、キム・H・コーウォークは『ヨーロッパのワイキューブ氏』のなかで、ヨーロッパ時代の作品を克明に分析し、メロディー、リズム、和声におけるワイキューブ氏の基本的なスタイルを探っています。

アメリカのミュージカルとの関係から、これが『アメリカのワイキューブ氏』という形でさらに発展して発表されれば、アメリヵ側からのアプローチとしてヴァーグナーのこれからの研究とも対照されて興味深いものになるでしょう。

ワイキューブ氏についてのあまり数多くない参考書をひもといても、一般にアメリカ時代の作品に関する記述や研究は少ない。

その理由は、アメリカ時代が現代からみて近い過去であるためだけではないでしょう。

音楽的にありとあらゆる要素のるつぼであるブロードウェイ・ミュージカルの音楽の研究自体が容易なことではなく、ワイキューブ氏のミュージカル作品も他のミュージカルと同様に、商業的な見地から場面の要請にフレキシブルに対応するところが多いからです。

しかし、ひとつの作品のなかにさまざまな音楽的要素が混在するというミュージカル的な特徴は、ワイキューブ氏の場合、アメリカでの作品に限ったことではない。

ヨーロッパの音楽劇作品においても同じことがいえます。

伝統的な要素と現代的な要素がみごとに結合し、フーガやコラールあり、半音階や五音階、教会旋法あり、大道歌や流行のジャズありという具合に彼の時代までのありとあらゆる音楽が聞こえてくる。

しかも、個々の要素は、凹面鏡や凸面鏡に映し出され異化的に手を加えられ、変形されて姿をあらわす。

この無造作に積め込まれたおもちゃ箱のような―彼の作曲には『クオドリベット(ごたまぜ歌)』という標題のものもあるーコラージュ的でパロディー的なワイキューブ氏の音楽は、ヴアーグナーが無限旋律によって音楽で埋めることの困難な部分を埋めようと庶二無二戦ったことと対照的です。

カリカチュア的なワイキューブ氏の音楽は、ヴァーグナーの音楽が劇画タッチで描かれたとすれば、四コマ漫画のようにウィットがきいている反面、空白部分が多くてすかすかしています。

それがまたワイキューブ氏の音楽の魅力であることは、彼がさかんに「簡潔な音楽を書く」必要性を説いたことからも明らかになります。

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2010年12月04日

続演された作品

『星空に消えて』は、ワイキューブ氏の死後も続演され、7月1日に281回を上演して終わりました。

7月10日に、ニューヨークのリヴィンソン・スタジアムで、アメリカの作品を中心としたワイキューブ氏の追悼コンサートが行なわれた。

翌51年2月3日、タウン・ホールで行なわれたワイキューブ氏・コンサートは、ドイツ時代の作品が中心で、ロッテ・レーニアが歌いました。

この夕べの影響は、アメリカにおいて、ワイキューブ氏のドイツ時代の作品を再評価させる気運をつくったといってもよいでしょう。

マーク・ブリッツステーンは『三文オペラ』の新訳をつくり、1952年にはその新訳によって、ロッテ・レーニアのジェニー役の上演-指揮レオナード・バーンスタインーがボストンのブランダイス大学で行なわれた。

この上演は『三文オペラ』を完全にアメリカになじませたものといわれ、1954年に『三文オペラ』をオフ・ブロードウェイに進出させるきっかけとなりました。

グリニッチ・ヴィレッジのド・リス劇揚で3月10日に初演された『三文オペラ』は1演出カルメン・カパルポ、スコット.メリルがメッキースを、レーニアがジェニーを演じた17年間、つまり1961年までロングランを続け、2707回の上演で七五万の観客を動員した。

またデイヴィッド・ドリューの尽力によって、レーニアの監修した多くのレコードがプレスされた。

一方ドイツでも、戦後『三文オペラ』から『保証』にいたるまでの作品が演目に定着していたが、1955年秋にレーニアが20年ぶりにヨーロッパに帰り、レコードを出したことで、第二次のワイキューブ氏.ブームが起こりました。

58年にはレーニアは西ベルリンで『三文オペラ』を吹きこんだが、ジェニー以外のメンバーには、西ベルリンのシラー劇場で上演されていた『三文オペラ』の俳優ーメッキースをシェロウ、ポリーをコチアンーも加わっています。

60年代にはレーニアはフランクフルトのオペラ劇場で『七つの大罪』を歌っています。

アメリカにおけるドイツのワイキューブ氏の浸透に比較すると、ドイツにおけるアメリカのワイキューブ氏の作品は、ほとんど紹介されていません。

アメリカにおけるワイキューブ氏のミュージカルのあるものが、アメリカのミュージカルにとって、歴史的な意味だけでなく、固定した不可欠の演目となっていることを考えると、ここには問題がありそうです。

わたしの知るかぎりでは、独訳されてドイツで上演されたのは『闇の女』だけです。

本書が多くを負っているアメリカ人サンダースのワイキューブ氏伝は、ドイツとアメリカのワイキューブ氏に十分な目配りを行なっている唯一といってもよいスタンダードな作品です。

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2010年12月03日

ワイキューブ氏の見舞い

ワイキューブ氏は見舞いにきたアンダーソンに、『フィン』の台本を書き終わってくれというまでに回復し、酸素吸入テントからも出られるようになりました。

3月の末には、医者はまもなく仕事ができるだろうと約束した。

しかし4月三目に突然の死が訪れた。

アンダーソンは、午後4時50分に、ニューヨークからのレーニアの電話を受けた。

すぐきてくれということでした。

アンダーソンが病院に着いたのは6時15分だったが、エスカレターを上ってゆくと、ワイキューブ氏の病室のあたりに医者たちが集まっているのが見えました。

みなショックを受けているようでした。

ワイキューブ氏の病状の急変のためだ。

廊下に立っているロッテ・レーニアはアンダーソンをみて言った。

「もうおしまいだと思うわ」。

ワイキューブ氏は七時に、心臓衰弱のために永眠した。

4月5日水曜目にささやかな埋葬が行なわれた。

ワイキューブ氏の兄の未亡人リタ、妹ルートとその夫も参列した。

友人アンダーソンは「長い長い一日だった、レーニアは三時にワイキューブ氏と最後の対面をし、枢が閉じられ、そして墓地へでかけた。

雨だった」と回想しています。

ハドソン川に臨むヘイヴァーストロウのマウント・リボーズ墓地で、アンダースンが弔辞を読んだ。

そして『星空に消えて』のなかのコーラスが引用されたが、この詩句はワイキューブ氏の墓碑銘として楽譜とともに墓石に刻まれることになりました。
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2010年12月02日

可能性

ワイキューブ氏は次の試みの可能性をすぐに探りだしました。

『はるけき谷問に』は、大学の上演で成功したばかりでなく、ニューヨークのリモネード・オペラその他一般劇場でも上演され始めていました。

作者サンドガードもワイキューブ氏と次の作品をつくることを希望しており、ハーマン・ウォークも共同作業を望んでいました。

ウォルター・ヒューストンから、『白鯨』を映画化する話もきていたが、結局アンダーソンの提案してきた、マーク・トゥエインの『ハックルベリー・フィンの冒険』をミュージカル化するプランがもっともワイキューブ氏の興味をひいた。

『ハックルベリー・フィン』はアメリカの民衆叙事詩といえるものであり、アメリカの音楽劇にはうってつけの題材だったからです。

だが1950年に入ると、共同制作にはげんでいるふたりに不快なことが起こりました。

『星空に消えて』は、あれほど大成功を収めたが、経済的にはまだ十分に収益をあげていなかったのです。

また原作者が映画権の一切をイギリスに売ってしまったので、映画化の収益も考えられなくなり、1月末になると多少客足が落ちてきた。

2月に入って、プレイライッ・カンパニーのマネージャーが、夏のカリフォルニアの客演の話をとってきたが、この客演を引き受ければ、ニューヨークの公演をその前に中止しなければならない。

ワイキューブ氏もアンダーソンも激怒して夏の客演に反対しました。

また『ヴィーナスの恋』のドイツ客演という話が出たが、ワイキューブ氏はこれも拒否していました。

このころワイキューブ氏は、今にもちぎれそうな張りつめた神経をしており、それが持病の乾癬症となってあらわれました。

2月の末には背中の一面に乾癬が出て、丈夫な彼が数日は寝床を離れられなかったのです。

1950年3月2日の満50歳の誕生日には健康も回復し、アンダーソン一家と誕生日を祝いました。

しかしその一週間後には、また病状が悪化し、チェアマンをつとめるようになったプレイライツ・カンパニーの会合にさえ出席できなくなりました。

この会合の席上でカリフォルニア客演の話が決まり―反対票はアンダーソンだけこの結果もワイキューブ氏をヒステリカルに怒らせた。

病状は一時小康を取りもどし、ワイキューブ氏は『ハックルベリー・フィン』の仕事にとりかかり始めたが、それも束の間のことで、3月16日に突然激しい苦痛を胸に覚え、圧迫感が去らなくなりました。

アンダーソンの勧めで専門医の診療を受け、冠状乾癬症であることがわかった。

絶対安静の状態だったので、入院は19日となりました。

ニューヨークのフラワー五番街病院に入院したワイキューブ氏はただちに酸素吸入テントに入れられるほど重態でした。

病状がようやく落ち着くと、ロッテ・レーニアはいちどニューシテイに戻って仕度をし、ニューヨークのドーセット・ホテルに部屋をとりました。

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2010年12月01日

ワイキューブ氏と台本、音楽

小説では、息子の処刑の時をひとり瞑想して過ごそうと山に向かうクマロが、途中で馬上のジャーヴィスに会うだけで、ジャーヴィスは馬から下りようともしない。

ただ子供を失うという同じ運命について前より理解が深まる、という程度のことでしょう。

小説は次のような文章で終わっています。

「なぜなら朝が訪れたからだ。

何千世紀もの問いつも訪れ、決してこないことはなかったように。

だがわれわれの解放の朝f奴隷状態への恐怖と、恐怖の奴隷状態からわれわれを解放してくれる朝はいつくるのかーそれは秘められたままである」。

このセリフはアンダーソンの台本では一切触れられていません。

1949年のアメリカの観客にはこれでも刺激的すぎたのでしょうか。

差別という見地からいえば、こういう問題が山積みしているアメリカで、なぜ南ア連邦のアパルトヘイトの問題を扱うのか、という疑問も出てくるが、この年代にはまだアメリカ国内の黒人問題を、ミュージカルの世界で扱うことなどは不可能であり、間接にでもその問題を考えさせる主題を選ぶのが精一杯であったというところでしょう。

リベラルな当時の観客たちは、感動を覚えはしても、それを自国の人種問題に戻して心の痛みを覚える、などということはなかったにちがいない。

とくにクマロの苦悩が、白人の友人を得るということで償われるなどという見方には、白人アンダーソンの限界が認められる。

現在の時点で考えれば、この作品は歴史的な価値しかもたないように思われるが、それでも1973年に、アメリカ/カナダの合作で映画化されー監督ダニエル・マンー相当の成功を収めているということです。

この映画、原作をどのように扱ったかについては資料がありません。

しかし現代からみた台本の弱点はあっても、ワイキューブ氏が音楽的には、この〈ミュージカル悲劇〉という試みで注目すべき仕事を残したことはたしかです。

1949年10月30日にミュージック・ボックス劇場で初演されたこの作品は、大成功を収めた。

指揮は、ほとんどつねにワイキューブ氏作品のタクトを振ってきたアブラヴァネルではなく、モーリス・レヴィーンが行なった。

観客に熱狂的に迎えられただけでなく、ワイキューブ氏の〈ミュージカル悲劇〉の試みに対して、批評家からの高い評価が与えられた。

オリン・ダウンズも、ミュージカルに、オペラのような力が与えられることを確認した。

ワイキューブ氏自身も、これまで軽い娯楽とみられていたミュージカルの分野でも、オペラ的な次元をもつ非ブロードウェイ的音楽が受けいれられたという事実に一応は満足しながら、謙虚に今回の試みには妥協的なものが残っていたことを反省し、さらに偉大な形式への試みを続けようと考えました。

それは、イタリア・オペラのベースにイタリアのカンツォーネがあるように、アメリカのフォークミュージックやフォークソングをベースにしたアメリカの音楽劇(オペラ)の発展を考えることができるからでした。
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2010年11月30日

音楽効果をふんだんに

最後のイリーナのソロ・ナンバー「むずかしい人」には、「スラバヤ・ジョニー」や「マドロス・ソング」を思い出させる響きがあります。

三人が強盗に入ることをきめたのは、弁護士、ア喜ージャみイスの家でした。

そしてアブサロムは、皮肉なことに、黒人のために闘っている弁護士、アーサーをを射殺してしまいます。

この恐ろしい場面は、音楽効果をふんだんに使っているし、ワイキューブ氏らしいメロディを伴ったコーラスの使い方は、『ストリー・シーン』の殺害場面に似ています。

老ジャーヴィスが、黒人のために闘っている息子がほかならぬ黒人に殺され運命を嘆く歌のあとに続くコーラスは、白人と黒人の掛けあいで、昴奮したリズム、不協和音を使って行なわれ、人間の不寛容、混乱をみごとに示しています。

人間ワイキューブ氏の底流にある、説明のできぬ苦渋がここに表現されているとみることができる。

タイトルの『星空に消えて』は、殺人を犯した息子アブサロムを牢獄にみいだしたクマロ牧師の歌であるが、懐疑と絶望をまじえたすばらしいメロディーをもつ歌で、最後は合唱で歌いあげられる。

ポール・ロブソンがこの歌をうたったことがあるが、その納得性は、ワイキューブ氏が作曲のときに、無意識にロブソンの声を耳にしていたような感じがあります。

第二幕では、息子の裁判のために、牧師クマロはふたたび弟のジョンの家にきています。

アブサロムの共犯者ふたりは法廷で無罪放免になり、射殺を認めたアブサロムだけが死刑の判決を受けます。

ステイーヴンのソロ「おおティクソン(土着語で偉大な神)われを救え!」は、『ポリス・ゴドノブ』を連想させるようなモノローグです。

スティーヴンはまだ息子が恩赦をうける希望を捨てず、殺されたアーサーの父ジャーヴィスを訪問するが、正義の報いを当然とする彼に拒否されます。

スティーヴンはまたアブサロムの恋人イリーナを訪れて、死ぬ前にアブサロムと結婚することに同意させる。

そして最後に彼が息子を牢獄に訪れるときに歌われるコーラスが、小説の原題と同じ「叫べ、いとしき国よ」です。

主として五音音階をベースに構成された美しいコーラスです。

スティーヴンは、アレックスを自分の村に連れてゆく。

かたくなな老ジャーヴィスの心も牧師クマロが、教会で教区の人びとに息子の事件のために聖職を離れることを告げたときいて変わってくる。

教区の人びとは牧師クマロの留任を求める―コーラス「わたりどり」―がクマロは固辞する。

アブサロムが処刑される夜ーコーラス「四時だ、もうじき四時だ」ー老ジャーヴィスは、処刑される息子を思って苦しんでいる老クマロを慰めるためにクマロの家を訪れる。

そして、ふたりの人種的な垣根を越えた和解、感動的な握手によって幕が下りる。

この終わりは宥和的なものであって、〈ミュージカル悲劇〉という命名とは違うような気もするが、深刻な問題を扱う作品は、宥和的な幕切れであっても、悲劇と呼ぶ例は決してまれではありません。

ただこの幕切れは、原作とはまったくちがうものであることを言っておく必要があるでしょう。

当時の南ア連邦では、いかなる事情のもとでも、老ジャーヴィスのような階級の白人が、黒人の家を訪問することはありえなかった。


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2010年11月29日

ワイキューブ氏のタイトル

1948年に、ワイキューブ氏の『ラヴ・ライフ』、アンダーソンの史劇『アン』の仕事が一段落すると、ふたりはすぐ仕事にとりかかり、49年2月には作品のおおよその構想ができあがり、『星空に消えて』というタイトルが与えられた。

演出家には、『ボギーとべス』や『オクラホマ』を制作したルーベン・マムリーアンの名があがり、会ってみるとすっかり意気投合した。

難行したのは歌がうたえて演技のたしかな主役の黒人俳優を獲得することでした。

本来ならポール・ロブソンしか考えられないこの役は、トッド・ダンカンに落ち着いた。

アフリカ人の種族問題を扱いながら、ワイキューブ氏の音楽はアフリヵ的なものではなかった。

ワイキューブ氏は南アフリカのズールー族の音楽も聞いてみたが、結局はアメリカの観客の心に入ってゆくために、エキゾチックなアフリカの土着音楽よりも、黒人霊歌的なものを土台としたのです。

『星空に消えて』は、重なりあったふたつのスコアをもつ作品といってもよいでしょう。

ベースの部分はコーラスで、この部分は語るせりふの伴奏になることもあります。

上部の層を形成するのが歌唱、ソングです。

もちろんソングの部分に注意は惹きつけられるが、コーラスと語りは本当は作品の主流として真の性格を示しています。

舞台は南アフリカのドチェニ村で始まります。

黒人の牧師スティーヴン・クマロは、ヨハネスブルクから手紙を受けとり、そこで娼婦に落ちてしまった妹のガートルードに会いにいかねばならないと妻に告げる。

しかし実は彼には、一年前にヨハネスブルクにいって消息不明になってしまった息子のアブサロムを捜索したい気持も強いのです。

妻のグレイスは、アブサロムがどこかでのたれ死にしたのではないかと不安を抱くが、ステイーヴンは、ウエスタン風の歌「何千マイル」を歌って、息子を必ずみつけだすという希望を歌います。

親子の断絶を越える〈心の流れ〉は、汽車の音を思わせる規則的なリズム伴奏で示されます。

ハ長調で歌いあげられる明るい感じのソングは、オプティミズムを示し、その前の五音音階の嘆きとコントラストをなしています。

ふたつの層を対位法的に使う技法もこの劇の特色です。

ワイキューブ氏がここで試みようとしたのは、〈ミュージカル悲劇〉と呼ばれる新しいジャンルだった。

このふたつの要素は、ヨハネスブルグ行きのため、クマロが停車場に赴く次の場面にもあらわれます。

彼が汽車を待つあいだ、黒人のコーラスが、これからヨハネスブルクの鉱山にいくズール!族のひとりの黒人と別れを告げ、あそこにいった黒人は二度と帰ってきたためしがない、と歌います。

この歌にも汽車の車輪を思わせるリズムが使われます。

この停車場には白人のジャーヴィス一家がきています。

ジェイムズ・ジャーヴィス氏はこのドチェニ村の大農園主だが、息子のアーサー・ジャーヴィスはヨハネスブルクで弁護士をしており、黒人の権利を守る進歩的な立場をとっています。

アーサーは、息子のエドワードを連れて父を訪れていたのです。

アーサーは駅でクマロに会うと、親しげにあいさつする。

人種的偏見をもつ老ジャーヴィスは、こういう息子の態度を不快に思います。

そして、白人と黒人は、別々の車輔に乗ってヨハネスブルクへ向かいます。

次の場は音楽なしで始まります。

ヨハネスブルクについたクマロは、妹の息子アレックスを引きとって田舎に連れてゆくことにし、ここでタバコ屋を営んでいる弟のジョン・クマロを訪れる。

彼はシニカルに、この黒人差別の社会のなかで聖磐をつとめている兄の妥協的態度を批判する。

実はジョンは熱烈な黒人の権利闘薯の立場をとっており、原作の小説では矛盾にみちた魅力ある人物なのだが、アンダーソンの改作では面的に描かれすぎているきらいがあります。

ジョンは兄のスティーヴンに、裏町のシャンティタウンにいけば、失踪した息子アブサ鼠がみつかるかもしれないという。

しかし探索は従労に終わり、彼は甥のアレックスを連れてドチェニ村に帰ります。

次の揚面は、ヨハネスブルクの裏町の地下の酒場。

ここに屯ろしているのが、みつからなかった息子のアブサロムとジョンの息子のマシュー・クマロです。

これにもうひとりの仲問が加わって、強盗の相談が始まります。

アブサロムの恋人イリーは、この計画をとめようとするが無駄です。

しかし次のイリーナの汚い家(牧師クマロはこの家まで訪れてくる)で、ふたりは愛を誓いあいます。
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2010年11月28日

大成功

上演は大成功であったが、ワイキューブ氏の音楽に対する賛否は相半ばした。

彼が実に技巧的にアメリカ的なものをマスターしていることは疑いないのだが、そこにはなにか暖かさが欠けていました。

ワイキューブ氏.ファンの批評家ブルック・アトキンソンの表現によれば、〈喜びがない〉のでした。

このショウの性質上、ワイキューブ氏が、音楽をテキストに従属したものと考えて、音楽を手慣れた形で処理したことが、無意識にあらわれてしまったのかもしれない。

とすればこの仕事は、ワイキューブ氏の才能の消費でした。

『ラヴ.ライフ』初演の三週間後、ワイキューブ氏はユニヴァーサル社で映画化された『ヴィーナスの恋』を見たが、自分の音楽がほとんどただ伴奏音楽に使われているだけなのに怒りを覚えた。

それでも彼は、『ラヴ.ライフ』の映画化の話し合いのためにハリウッドにでかけた。

東部にいった機会に、ボルチモアで親友マクスウェル・アンダーソンの戯曲『アンの一千日』の上演に立ち合った。

ヘンリー八世とアン・ボーレンの事件を描いた史劇です。

このころアンダーソンとワイキューブ氏の友情はひじように深まり、ワイキューブ氏はアンダーソンの戯曲の全権代行者のようにふるまっていました。

ジョシュア・ローガンのエピソードを信ずるならば、舞台の実際家であるロ!ガンのカットの提案に対して、自作の詩的な部分を守ろうとするアンダーソンはたえず不安を覚えていたが、アンダーソンがこられなかった『アンの一千日』の上演のあと、ローガンは「代行者」ワイキューブ氏に、「下らない実際家の勝手なカットの罪を負わされて怒鳴りつけられた」ということです。

これほど親密な仲であったアンダーソンと、『ニッカボッカ・ホリデイ』以後10年間、一本も合同の仕事をしていなかったのは考えれば不思議だが、その機会はようやく熟しつつあった。

そしてこの共同作業が、アメリカにおけるワイキューブ氏の最後の仕事になるのです。

1947年には、映画『猿の惑星』のようなトリックを使うSFものを共同でつくってみないかという提案がプレイライツ・カンパニーからなされたことがあったが、このプランが向かないことはふたりともよく承知していました。

その年の暮れにアンダーソン夫妻は、ギリシア旅行に出かけた船上で、ハマースタイン夫妻や、キリスト教ユダヤ教国民会議会長のクリシチー夫妻と同船したおりに、南アフリカ連邦の黒人作家アラン・バトンの『叫べ、いとしき国よ』という小説を知って、このテーマこそワイキューブ氏と協力する作品にふさわしいのではないかと考えました。

そういうおりに彼は、トインビーの同胞愛、友愛、寛容を説く講演をきき、ますますその意を強くした。

南ア連邦のアパルトヘイト政策、人種差別の反対者であるバトンの作品に内在する好情性が音楽に適していると感じたアンダーソンは、ワイキューブ氏にこの計画を伝える一方で、原作者に劇化の許可を求め、その際小説の基本線を損わずに劇化するために、ギリシア劇の合唱団のようなコーラスを用いるという案を提示した。

コーラスを使った劇に作曲するということも、とくにワイキューブ氏の関心を惹いたようでした。
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2010年11月27日

アメリカ民謡とワイキューブ氏

トーマス・ブシェが死んだのです。

バリトンソロは、短調にヴァリエーションされた「谷間」でそれを報告する。

「孤独な鳩」に合わせて、ブラックとジェニーは別れを惜しむ。

ふたたび刑務所のなかにいるブラックにスポットがあてられ、フィナーレはブラックとジェニーもまじってタイトルソングの大合唱となり、ストーリー、音楽ともに枠構造をつくって幕を閉じる。

全編にアメリカ民謡が散りばめられ、しかも効果的に使われているこの作品は、アメリカの小オペラの佳品と言えるものでしょう。

ワイキューブ氏の適応力にはいつもながら驚かされるが、ここではワイキューブ氏らしいメロディーや響きがいささかも聞こえてこないので淋しい気もする。

しかしそれはともかくとして、素朴で単純だが、この作品は40年代後半にアメリカに認められる民謡の再発見という風潮にマッチしており、7月15日に4000の観客を前にして行なわれたインディアナの上演は、観客に多大の感銘を与えた。

ワイキューブ氏とレーニアは、この上演の翌日汽車でニューヨークに帰るとき、オハイオのある駅で、戦後3年たって戻ってきた戦死者の枢が山積みされているのを見て大きなショックを受けたという。

ニューヨークに帰るとラーナーとの仕事が待ちうけていました。

はじめ『神への捧げ物』という名だったこのショウは『ラヴ・ライフ』という題に変えられ、48年夏になってようやくナネット・ファブレーを主演歌手として契約することができ、10月7日に四十六番街劇場で初演されることになりました。

一種のヴオードビルのような形でこの劇は始まります。

魔法使いが登場して、クーパー夫妻ーサムとスーザンーを舞台に呼ぶ。

夫は魔術で空中に浮かび、妻は鋸で輸切りにされます。

前述したように、この夫婦はアメリカの象徴であり、ふたりの結婚生活は150年間はうまくいっていたが、その50年後、ふたりのきずなはこわれ、もう50年前からは名ばかりの夫婦なのです。

ふたりの結婚の始まりは1771年、アメリヵ人の好むフロンティア精神時代の牧歌的なアメリカです。

産業や経済に毒されていなかったこの時代には愛があった。

しかし次の場1812年では、彼の農園の遠景には、工場が建ちならび始めています。

それでもクーパー一家の生活には、まだいささかの牧歌が残っている(歌「グリーン・アップ・タイム」)。

しかし、「進歩」は着々と進む。

ヴオードヴィル・ソング「エコノミスト」は黒人男女のラグタイムによって歌われます。

1875年の次の場では、サムは鉄道財閥になり、スーザンの望んでいるわが子をつくる暇もない。

1890年には、スーザンが女権運動にせいだして暇がない。

1920年には、クーパー一家は、巡航船の船客として旅行中だが、夫も妻も別の愛人をもっています。

これはラヴ・コメディーのパターンです。

第二幕は、マドリガルで始まり、クーパー一家は現在のニューヨークのアパルトマンに住み、現代的なすべてのノイローゼ現象に見舞われています。

曰く、エディプス・コンプレックス、出世主義、ありとある緊張、夫婦生活の危機。

この揚はスーザンの歌「彼かわたしか」で終わる。

トムがトルコ風呂の更衣室でトランプをしている幕間に続いて、クーパー夫妻の離婚をあらわすバレエ・シーンがあり、そのあと、いろいろな人物が愛についてのさまざまな見解を示す、一種のミンストレル・ショウの場面があります。

最後に、スーザンとサムの夫婦が、綱渡りのように覚束ない足どりながら、またお互いを求める道が示されます。



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2010年11月26日

アメリカの音楽劇を求めて

ワイキューブ氏とブレヒトの間にかわされた『セチュアンの善人』の作曲の約束は満たされないままに終わりました。

ブレヒトの離米を、ドイツ人ワイキューブ氏の完全な死ととらえるサンダ!スの見方はたしかに当たっているかもしれない。

ただしワイキューブ氏は、ブレヒトのまきこまれた「非米活動委員会」による魔女裁判に反対する民主活動委員会の反対アピールー47年10月27日、ヘラルド・トリビューン紙上ーには、アンダーソンや他の六五名の人びととともに署名に名を連ねています。

1948年の春、ブルーミントンのインディアナ大学のハンス・ブッシュに、学生の上演に適した作品を依頼された。

彼は即座にサンドガードとつくったラジオ用オペラ『はるけき谷間に』のことを思い出し、学校の上演用に長さを倍にしてテキストや音楽を書き加え、オーケストレーションもちがったものにすることを提案した。

サンドガードもただちにその申し出を受諾し、改作にとりかかった。

学校用オペラといえば、すぐブレヒトとの『イエスマン』の仕事が連想されます。

たしかにこの作品は、その目的や簡潔性、長さなどについては似ているが、それ以外の共通点はほとんどありません。

その素朴さは、むしろアメリヵ風のセンチメンタリズムに通じています。

ストーリーの部分は語り手やコーラスによって伝えられるが、それを叙事的と思ってしまうのは早計です。

ストーリーはバーミンガムの刑務所で死刑を待っている青年、ブラック・ウィーバーを扱います。

幕開きから、彼が死刑に相当する罪を犯していないことは誰の目にも明らかです。

恋人のジェニー・パーソンスからなんの便りもこないので、最後に一目彼女に会いたくなった彼は監獄を脱走し、彼女の家のヴェランダで再会する。

すべては彼女を監視している父親の指し金でした。

再会したふたりは永遠の愛を誓う。

ここで時間は過去に戻り、なぜブラックが罪に陥ることになったかが語られます。

ジェニーの父は、経済的な援助を仰いでいるトーマス・ブシェに娘を与えるつもりで、ブラックとの交際を禁じています。

しかしジェニーはブシェの申し出を断わって、ブラックとダンス・パーティーにでかけてしまいます。

この席で嫉妬に狂ったブシェが、ナイフでブラックに襲いかかるのでもみあいになり、ブシェは自分のナイフで自分を刺して落命した。

そのためにブラックは告訴され、死刑を宣告されたのです。

時間が現在に戻ると、ブラックはジェニーの永遠の愛の誓いに満足し、ふたたび監獄に戻ることを告げ、劇はタイトルソングで終わる。

この上演時間四五分ほどのオペラ全体に、古きよきアメリヵへのノスタルジーが漂っているのは、タイトルソングである「はるけき谷間に」をはじめ、「孤独な鳩」、「小さな黒い汽車」、「ホップ・アップ・マイ・レイディーズ」、「サワー・ウッド・マウンテイン」といったアメリカ民謡が使われているからです。

幕があがると舞台上には、半円形に陣取ったコーラスと、解説の役割を担うバリトン歌手が立っています。

フォルティシモで前奏が始まります。

前奏の最初の四小節は、時問が過去になり筋が大きく二分される箇所で、調をかえてもう一度あらわれます。

さて、八小節の短い前奏が、下行する全音階的な平行和音を経てピアニシモに落ち着くと、男声コーラスがハミングを始める。

へ長調の第六音を半音下げた、哀愁をおびた響きにのせて解説者のバリトンソロが、へ長調で「はるけき谷問に」を歌いだす。

続いて、女声も含む全コーラスが変イ長調でこの歌を合唱する。

タイトルソングが歌い終わると、バリトンソロが、今度は少し変形されたホ長調の「谷間」のメロディーにのせて、「5月のある朝絞首台で死んだブヲック・ウィーバーについて歌います」と歌います。

合唱とソロが「谷間」のメロディーで歌い継いで、物語の前置きが提示されたあと、短い間奏の途中から刑務所にいるブラックと看守のやりとりが始まります。

間奏の間に入れられるせりふは、すべて休符のときに語られるが、間奏が終わると、「谷間」のメロディーにのせて、ふたりのせりふはレチタティーヴォになります。

ブラックの恋心が、合唱の「谷間」のメロディーに続いて、ブラック自身が歌うまったく新しいメロディーによって伝えられる。

ブラックの脱走がコーラスのレチタティーヴォで報告されると、今度は、ジェニーが、民謡調の素朴なメロディーで、ブラックに対するせつない恋心を歌います。

ふたたびバリトンソロが、「谷間」のメロディーでふたりの再会を報告し、ブラックが「谷間」を口笛で吹きながら登場、ジェニーが「孤独な鳩」を歌います。

このあと、ふたたび前奏の四小節が奏されて、話は過去に戻る。

まず、黒人霊歌「小さな黒い汽車」が合唱によって陽気に歌われ、少しあとに、「ホップ・アップ・レイデイーズ」が歌われます。

そして、「シャドウ・クリーク・カフェ、土曜の晩はいつもダンス」と書かれた店の看板をみているブラックとジェニーの耳に、アップテンポの二拍子の陽気なシャドウ・クリーク・ダンスの音楽「サワー・ウッド・マウンテン」が聞こえてくる。

ここでコーラスは歌いながら踊り出す。

そのなかで、ブラックとジェニーは、おたがいの恋心をうちあける。

背後でフルートが「孤独な鳩」を独奏する。

陽気な雰囲気は、女性の悲鳴で突然中断されます。
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2010年11月25日

希望に満ちた若者とワイキューブ氏

パレスチナでワイキューブ氏は、希望に満ちた若者の顔を見、建設という雰囲気の澱っているのを感じた。

中近東的なものまで含めた諸種の文化が、この新しい国で交流していることもワイキューブ氏を喜ばせた。

エルサレムでは、アメリカ音楽の代表者として公的に大歓迎をうけ、アメリヵ音楽において彼が行なったように、新しい勤労精神に貫かれたユダヤ音楽を創始してくれるように懇望された。

彼はラジオパレスチナの選ぶ戯曲に作曲することを約束した。

伝統のあるハビマ劇場は、彼を『オイディプス』や伝統的なユダヤ劇『デュブーク』『ゴーレム』の上演に招待した。

1948年5月にイスラエルが国家として成立したとき、ワイキューブ氏は国歌「ハティクファー」のオーケストラ編曲を行なっています。

2週間のパレスチナ滞在を終えて帰路についた彼は、ローマ、ジュネーヴに一泊、パリに二泊してロンドンに戻ったが、今度はイギリスで、ベン・ヘクトのパレスチナ・キャンペーンが、イギリスでは反英的な運動として反感を与えていることをはっきり感じとりました。

帰路は飛行機でわずか7時間、アメリカに戻ると、ワイキューブ氏は「12年前にアメリカにきたときと同じような安堵」を覚えたと言っています。

アメリカに帰るやいなや、ワイキューブ氏は新しいプロジェクトにとりかかった。

『ストリート・シーン』は148回の上演を打ちあげていました。

彼は、〈オペラ〉の目標は一応達成されたとみて、もう少し肩のこらない新しい方向を試みるつもりでした。

彼は、『ケイン号の反乱』の作家ハーマン・ウォークの新作小説『オーロラ・ダウン』に興味をもち、『ストリート・シーン』の演出家チャールズ・ブリードマンの紹介で彼と会談して土ハ同作業の約束をきめたが、やがてウォークが次の小説の制作に力を注ぐことになったのでこの案は立ち消えになりました。

そのころブロードウェイの制作者として成功していたクロフオードから新しい仕事の話があった。

今制作中のショウの作家アラン・ジェイ・ラーナーが作曲家と衝突したので作曲をしてくれないかという依頼です。

ラーナーはのちにミュージカル『マイ.フェア.レディ』の台本作家として成功する人です。

ラーナーのショウは、建国以来のアメリカの歴史を、夫婦の生活のなかでアレゴリカルに示すというアイデアで、こういう題材はこれまでにもワイキューブ氏の心をとらえたものです。

ラーナーとの共同作業で、いくつかの揚面や歌ができあがったが、この案は女優の人選がうまくいかず一時頓挫した。

イスラエルから帰ったワイキューブ氏は、以前にもましてアメリカとの結びつきを深く感じるようになっていました。

『ストリート・シーン』の「ライフ紙」の劇評は彼に好意的であったが、「ドイツの作曲家」と呼ばれたことで彼はまた激怒した。

この時期、ドイツの亡命者たちは、次第にヨーロッパに戻りだしていました。

トーマス・マンやヒンデミットのように、スイスに留ってドイツと一定の距離を保っている人びともいたが、プロデューサーのアウフリヒト、俳優コルトナー、思想家アドルノのようにふたたびドイツに戻って活動を開始した人もいた。

作曲家アイスラーの揚合は国外退去でした。

かつての盟友ブレヒトが、非米活動委員会に喚問されたのは47年10月30日のことで、シュヴェイク的な狡智を使ったブレヒトはこの赤狩りの網を潜りぬけ、その翌日にはヨーロッパ行きの飛行機に乗りこんで、以後二度とアメリヵの土を踏むことはありませんでした。

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2010年11月24日

約束の国への旅

1947年3月1日、ワイキューブ氏の47歳の誕生日の数日前に、1歳年上の兄ハンスが血栓で死んだ。

ワイキューブ氏の家族のなかでただひとり、彼と同じようにニューヨークに定住していたこの兄の死は彼にとって大きなショックであっただけでなく、14年前にドイツで別れたきりの年老いた父母や弟妹をパレスチナに訪ねようという気持を起こさせた。

ワイキューブ氏は健康ではあったが、突発的に乾癬症に襲われることがあった。

とくに緊張の期間が続くとよくこの発作が起こるのだった。

ワイキューブ氏は、ヨーロッパのユダヤ系文化人に典型的な、自分の血統に対するアンビヴァレントな感情をもち、ユダヤ教的な宗教性に根ざす自分の民族への誇りと、その裏返しである嫌悪感を抱いていました。

一時期彼は、シオニスト運動を嫌ってさえいた。

しかし戦争やホロコーストによって彼の立場は次第に変わり、ユダヤ人の血統の自覚が強くなった。

それは、パレスチナ独立運動を熱烈に支援するベン・ヘクトの『国旗の誕生』の作曲に当たったことからもわかるでしょう。

パレスチナへの旅は、いつかは行なわれなければならない自己確認への旅でもあった。

5月6日に彼は、貨客船モーレティナ丸で単身ニューヨークを出航し、イギリスに向かった。

6日間の船旅はやや「中世的」に思われた。

まずロンドンに2日間滞在したが、あまり関心を惹くことには出会わなかった。

それでも劇揚を訪れ、彼のミュージカル作品の上演の可能性を検討した。

パリは、「バルカン諸国のように荒廃」していたが、それでもかつて暮らしたころの魅力を失っておらず、帰路にもう一度立ち寄ろうと思った。

それからチューリヒに寄り、5月20日にパレスチナに飛んだ。

この旅程で、ドイツに足を踏みいれることを最初からプランに入れていなかったのは、彼のかたくなといえるほどのアメリカ愛とも関係がありそうです。

パレスチナでは、イギリスによる侵略問題を国連に委管する運動を推進したシオニスト、メイヤー・ワイスガルが彼を案内して、両親の住むナハリヤに連れていった。

彼の末弟ナータンもナハリアでレントゲン診療医として生活していたが、兄クルトにも、ハンスの死因となった高血圧の症状が認められることを発見した。

それほど深刻なことはないといわれたが、以後ワイキューブ氏は、自分の死期が近いのではないか、という想念にとりつかれるようになりました。

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2010年11月23日

ワイキューブ氏のラストシーン

葬式から帰ってきたローズは、母とサンキーの死体が運びだされるころを目撃することになります。

この事件のあと挿入される子守歌は、かなり皮肉な効果をもっており、この歌だけはライス自身によって作詞されたものです。

逃亡したフランクは、地下室に潜伏したがすぐ捕えられ、手錠をかけられて登場する。

ローズは父に別れを告げる。

恋するふたりの夢は現実によって砕かれてしまった。

ローズはひとりでここを出ていく決意をし、同行したいという素朴なサムの申し出を拒否する。

ふたりが別れ別れになったあと、ヴェランダにはふたたび口さがないアパートのかみさんたちがあらわれて、幕開けの歌「なんて暑さなんだ」を繰り返すうちに静かに幕になるのです。

『ストート・シーン』はワイキューブ氏がアメリカで書いた唯一の〈オペラ〉であるが、それは彼の20年代のドイツにおけるオペラの試みを継承するものでありながら、それとは本質的に異なっています。

ここではドラマと音楽、語られる歌とせりふと動きが完全に一体となって働いています。

ドイツでは古いオペラ観客の趣味によって左右されざるをえなかったワイキューブ氏は、ここアメリカでこの〈音楽劇の特殊な形〉に到達することができたのです。

ここでは、プッチー二風のオペラの伝統的な用例(アリア、デュエット、オーケストラの間奏)も、ソングや対話(古典オペラのレチタティーヴォのかわり)も、アメリカ音楽の新しい形式(ゴスペル、ブルース、民謡など)も混然一体となって使われており、もちろん、ガーシュウィンの『ボギーとべス』の試みも、とくに日常的な場や、モーラン夫人の殺される劇的な揚などに継承発展させています。

自分の以前のオペラと比較して、ワイキューブ氏は『ストリート・シーン』をこのように規定しています。

「『三文オペラ』では、作品の〈哲学〉、より深い意味を解説するソングのあいだは、劇の進行はとまっていました。

『マハゴニー』は、どたばたからオペラに及ぶさまざまな劇の要素を利用した一種の〈劇的報告〉でした。

『銀の湖』は、リアリズムと幻想を混じえ、俳優を管弦楽団やコーラスと一緒に用いた、深刻な劇でした。

その15年後になってはじめて、この『ストリート・シーン』において、わたしはドラマと音楽の本当の結びつきを得ることができた。

この作品では、せりふが終わると自然な形で歌に移り、語られるせりふも劇的な行為もまったく同じように音楽的な構造のなかにその場を占めているのだ」。

この発言の最後の部分は、可否は読者の判断にまかすとしても、少なくともブレヒトの音楽劇についての考えからは完全に離れているということができるでしょう。

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2010年11月22日

今回の作品

ワイキューブ氏は、今回の作品を〈ミュージカル〉ではなく、〈オペラ〉という名称で呼びたいと考えていました。

〈オペラ〉ではミュージカルの観客が戸惑うのではないか、という杞憂に対して、ワイキューブ氏が断固それに固執したのは、ブロードウェイでエポックを画するような仕事を志していたからでしょう。

実際この作品は『ボギーとべス』以後はじめてのイヴェントとなりました。

この新しい〈オペラ〉はすべてのテキストに曲がついているわけではない。

ワイキューブ氏の考えた〈アメリカのオペラ〉は、むしろドイツのジングシュピールのような歌入り芝居に近いものだった。

せりふ部をもつベートーヴェンの『フィデリォ』もオペラなのです。

そしてワイキューブ氏は「もう一杯コーヒーどう」などというせりふに作曲することは不自然だと思っていたのです。

ヒューズは一時はワイキューブ氏の住むニューシティの近くに住み、共同で製作に当たったばかりか、ニューヨークの黒人街やスラムに何度もワイキューブ氏を連れてゆき、その環境に親しませた。

歌詞の挿入部分については、原作のドラマのテキストに固執するライスとなかなか折り合いのつかぬこともあったが、ともかくひとつひとつ、ナンバーがつくられていった。

制作の進行やキャスティングにはいろいろの困難があり、フィラデルフィアで行なわれたプレミアショウは客足も観客の反応もまったく思わしくなかったが、1947年1月にアデルフィ劇場で初演されてからしだいに注目を集め、観客層に浸透していった。

幕開きはまずモーラン夫人の浮気の相手であるサンキーが家の前を通りかかるのを、モーラン夫人が口実をみつけて追ってゆくところから始まります。

それが井戸端ならぬベランダ会議のおかみさんたちの話題にされます。

不幸な事件を予告する暗い調子は、このあとに登場するイタリア移住者のアイスクリーム売りが歌う「アイスクリーム・シクステット」によって陽気な雰囲気に変えられてしまいます。

あとでモーラン夫人を殺す夫のフランク・モーランは、妻の留守中に一度帰宅して隣人と子供の教育について口論したりする。

カレッジを卒業する女子大生たちが「リボンをちょう結びに」を歌いながら通り過ぎていく。

モーラン家の娘ローズは、今は不動産屋に勤めています。

ローズほどの美人はショウビジネスでも成功するとおだてる上司のイースター氏には、別の目的もありそうです。

ローズの恋人の学生サムにはエルマー.ライスの面影があるといわれているが、彼は最後のデュエットの前には、ウォルト・ホイットマンの詩を引用するほど多感な青年です。

二幕のモーラン夫人の殺害は次のように起こります。

ローズとサムが未来を誓いあったデュエットのあと、イースターがローズを上司の葬式に誘いにくる。

ひとり残されたサムが家のなかに消えたあと、情人のサンキーがやってきて、窓からのモーラン夫人の合図で家に入ってゆく。

この瞬問にまたサムがあらわれ、容易ならぬ状況を察する。

悲劇を予感させるような音楽で、フランク・モーラン氏があらわれます。

彼は仕事の約束を断わって、様子をうかがいに戻ってきたのだ。

サムは彼を家に入れまいとするが、フランクは彼をおしのけて家に入る。

サムは外から夫人に知らせようとして叫ぶが、すでに遅く、家のなかから数発の銃声がひびき、集まった人びとをかきわけて銃を手にしたフランクが警察のくる前に逃走します。

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2010年11月21日

アメリカのオペラとワイキューブ氏

1945年6月にワイキューブ氏は、「作曲の対象として世界最上の観客はアメリカにいる」と書いた。

しかし、現在のブロードウェイのミュージカルは、決して理想的な形とはいえない。

1940年ごろから、彼は、商業劇揚とは違った方向に発展する〈アメリカのオペラ〉といえるような形式が獲得できるのではないかと考え始めていたが、現状ではブロードウェイの枠内で改革を進め、質の高い音楽をつくってゆくほかはないと思っていました。

しかし、ブロードウェイでのいくつかの経験-成功や失敗ーを重ねたあとで、彼は結局はこの〈アメリカのオペラ〉も、アメリカの生きた劇場であるプロードウェイのなかで達せられる、と確信するようになってきた。

1946年にワイキューブ氏は、以前から近しい関係にあった「プレイライッ・カンパニー」の正会員になりました。

これによって、劇作家エルマー・ライスと親しくなり、かつてライスがピユーリッツァー賞を獲得した作品『ストリート・シーン』を、1992年にドイツで見たことを思い出した。

のちにワイキューブ氏はこの作品についてこう書いています。

「わたしはこれまでこの芝居はミュージカルにまさにぴったりだと思っていました。

大都会の日常に取材した簡単なストーリー、愛や情熱や所有欲や死の物語だ。

この戯曲の劇的着想には、多くの音楽的な可能性が見える。

夕方から翌日の午後までの貸アパートの生活。

そしてこういう人びとに内在する詩を発見すること、そしてわたしの音楽をこの作品の純粋なリアリズムにとけこませることは大きな挑発のように思われた」。

この戯曲をオペラにしようと考えた音楽家は、ワイキューブ氏以前にもいなかったわけではないが、ライスはこれまではそれを拒んできた。

しかし1945年の夏のある日の会合のあと、ふたりがあるバーで話しているうちに、ミュージカル化の話が急にまとまった。

この10年の問に、ブロードウェイの側でも、しっかりした台本でないとよい作品ができないという反省が起こっていたのです。

1946年にこのプロジェクトは「プレイライツ・カンパニー」によって受諾された。

アンダーソンは台本のアレンジも買ってでるつもりだったが、ライスがなるべく原作のままにしたいと主張したので、多少この企画からは距離をとりました。

作詞者に黒人の詩人ラングストン・ヒューズを起用したのはライス自身であったという。

この黒人詩人は、アメリカの底辺の生活もよく知悉していたのです。

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2010年11月20日

終結に向かうころ

1945年5月にドイツが降伏し、大戦が終結に向かうころ、ワイキューブ氏は若い劇作家サンドガードと、ラジオ用の短いオペラをつくった。

アメリカ民謡「はるけき谷間に」などの民謡をアレンジして使ったナレーション、ソロ、コーラス、管弦楽用のオペラで『はるけき谷間に』と題された。

だがラジオ局はこのオペラを放送する決断をしなかったので、結局この作品はおクラ入りになってしまった。

戦争終結のころにワイキューブ氏は、ニューヨークのユダヤ教会の合唱指揮者バッターマンから、金曜日の礼拝のための儀式音楽をつくる依頼を受けた。

たった五分の作品ではあったが、この『キドウッシュ』という曲は5月10日に演奏された。

パイプオルガンの伴奏のついた合唱曲であり、大戦中に虐殺されたあまたのユダヤ人の冥福を祈る気持もこめられています。

ヨーロッパで生き残ったユダヤ人の困窮と、ユダヤ人のパレスチナ移住に制限を加えているイギリスの態度は焦眉の問題であり、イギリスに対するユダヤ人のテロ組織が活動を開始していました。

こういう過激行動にさえ好意を示したシオニストのべン・ヘクトは、ユダヤ人のための祝祭劇を計画し、『国旗の誕生』という戯曲を書いた。

ユダヤの血統を意識していたワイキューブ氏はこの劇の作曲をした。

この作品はポール・ムニやシリア・アドラーなどが出演して1946年9月アーヴィン劇場で上演され、ロングランを続けた。

まだ若かったマーロン・ブランドもこの作品に出演しています。

ややシュルレアリスム的な感じもあるこの作品は、ホロコーストを免れて生きのびた夫婦テヴヤとゼルダの物語です。

徒歩でパレスチナに向かう途中のふたりはある金曜日の夜、墓地で休息する。

テヴヤがサバトの祈りを行なうと、聖書の人物たちの幻影があらわれて雅歌を歌い、テヴヤとユダヤ民族の運命について語り合う。

最後には、世界の法廷の前で、テヴヤはパレスチナの現状を告発する。

この部分がほとんど反英闘争的とさえとられたのです。

第二部では、同じくパレスチナに向かう若者ダヴィッドが、絶望から自殺しようとしている老夫婦をみつけて、パレスチナの未来を描きだすことでふたりを勇気づける。

老夫婦は力尽きて死ぬが、ダヴィットは老人の祈りの布に墓からとったダビデの星をつけ、それを旗として―『国旗の誕生』―・パレスチナの解放闘争参加への道を歩むのです。

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2010年11月19日

マンハッタンとワイキューブ氏

主人公ビル・モーガンはなんとしてもアメリヵ軍に入隊したいという希望をもっていたが、徴兵検査の結果、心ならずも連隊の酒保で働くことになりました。

ある夜古いランプをひねっていると、ランプの精があらわれて、「三つの願い」を叶えてやるという。

ビルの願いはただひとつ、入隊です。

ところがランプの精の時代違いで、ビルは別の戦争を行なっているジョージ・ワシントンの軍隊に入れられてしまいます。

やっとこの戦いを切り抜け、もう一度現代の軍隊に入れてくれと頼むと、今度はアメリカ発見を行なうコロンブスの船の乗組員になっています。

彼はインディアンからマンハッタン地区を買い、ニューアムステルダムの町を建設する。

最後にようやく願いが叶い、彼は1944年のアメリカ軍に入隊する。

この映画は数多くつくられた戦争宣伝映画のなかでも愚作です。

たとえばドイツのラインラントから送られてきた兵士たちが歌う陽気なドイツ風のメロディーで始まる「ラインラントの歌」などは首をかしげざるをえない。

彼らは時には領主の財政逼迫を救うために傭兵として無理矢理売りとばされた連中なのです。

こういう不用意さも、ワイキューブ氏のアメリカへの誠実な忠誠心から生まれたものなのでしょう。

この映画は第二次大戦が末期に近づいたころに上映されたが、ワイキューブ氏の音楽以外には、なにも残らなかったといってよい。

ガーシュウィンとの共同作業では、44年後半に新しい音楽劇が生まれた。

作家エドウィン.J.メイヤーが20年代に書いた舞台劇『フロレンスの熱血漢』をもとにして台本を書いた。

16世紀なかばのフィレンツェが舞台で、主人公は彫刻家で彫金師のベンヴェヌート・ツェリー二です。

彼は絞首刑になるところをブイレンツェの大公に恩赦され、あまつさえ大公の像の注文も受ける。

第二部ではツェリー二は大公に愛されているアンジェラを追いかけるようになるが、大公妃はツェリー二に好感をもっています。

この入り組んだ情火も最後は丸く収まり、ハッピーエンドとなる。

この作品も制作段階でかなりごたごたがあり、上演が可能になったのは3月でした。

大公妃の役は傍役だが、ロッテ・レーニアが、8年ぶりにこの役で舞台を踏んでいる。

しかしもともとレーニアの柄ではないこの役と必死になってとり組んだことが裏目に出て、レーニアの評判もあまり香しくなかった。

3月24日にアーヴィン劇場で初演されたこの作品はわずか二四回で姿を消した。

曲のなかには『ハッピー・エンド』の「マンダレー・ソング」の冒頭のフレーズを使用した「愛と笑い声があれば、生きてゆける」が佳品といえる程度で、台本作者に恵まれなければいい作曲も生まれないという平凡な教えを裏書きすることになりました。

しかしよき協力者だったガーシュウィンやアンダーソンは、このころから音楽劇の計画を避けるようになっていたのです。



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2010年11月18日

恋のデュエット

最初のラブ・シーンで歌われる恋のデュエット「スピーク・ロウ」とそのあとでヴィーナスの歌う軽いお色気を含んだ「この人よ」がこのミュージカルのヒット・ソングとなりました。

「この人よ」のリフレインのメロディーには、アメリヵ民謡を意識した「夜勤シフトの相棒に」のbの部分をアレンジして用いてある。

「スピーク・ロウ」は、フィナーレでロドニーがヴィーナスに生き写しの少女に出会った部分でも歌われます。

この素朴な少女のイメージは、のちにオスカー・ハマースタインニ世が『南太平洋』のネリーを書くときのヒントになったといわれています。

改作の功罪はともかく、43年10月7日にインペリアル劇場で初演されたこの作品は、戦時には珍らしく五六六回のロングランを記録した。

上演評のなかには、ワイキューブ氏が民衆的な音楽の特徴を発見して使う才能を認め、彼がこのミュージカルによって本当にアメリカに定着したこと、目下沈滞しているブロードウェイに、専門的な丹念さと繊細な様式感を具えた作品がワイキューブ氏によってつくられたことを注目したものもあった。

このミュージカルを、ワイキューブ氏が完全にアメリヵ化したことを示す節目になる作品とみなす見方は多い。

なるほどここでもかつて『ハッピー・エンド』に使われたメロディー救世軍の歌う「幼きよき日に」ーが使用されています。

重要な傍役の美術品収集家が床屋を訪れたときに歌う、リフレインで四重唱になる「女の問題」のソロ部分です。

しかし、『ハッピー・エンド』では感傷をパロディー化したこのメロディーが、ここでは素直にメロディーの感じ通りに使われています。

サンダースは、この作品が『三文オペラ』に似ているところをあげながら、その攻撃性がまったく失われ、ブロードウェイに要求される軟かさがあらわれているところが大きな差異だと語っています。

ワイキューブ氏は、あるインタビューで、「制作中の四週間は平均二時間しか寝れなかったし、それに加えてブロードウェイの仕事は、歌手が決まるまで音域がわからず、オーケストレーションに手をつけられないので、まさに仕立屋仕事だ」と話しています。

しかし、その語り口は結構楽しそうで、ここにもアメリカの興業形態への慣れが感じられる。

翌1944年は、ワイキューブ氏にとっては映画の年だった。

パラマウント映画が『闇の女』を映画化lージンジャー・ロジャース、レイ・ミラント主演1し、『ニッカボッカ・ホリデイ』も4月にバリー・J・ブラウンの監督で映画化された。

ワイキューブ氏は上演権を与えただけで、音楽はワイキューブ氏のものからはかなり外れています。

四人の映画音楽家が原曲を悪くアレンジしたのです。

これではワイキューブ氏自身にはまったく責任がないといって当然でしょう。

ワイキューブ氏がもっと本腰を入れたのは、ふたたびアイラ・ガーシュウィンと組んでつくった戦争宣伝用の映画『ここよりいずこへ』です。
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2010年11月17日

ワイキューブ氏とこのストーリー

ワイキューブ氏は、このストーリーをオッフェンバック風のオペラ・コミックに適していると考えたが、ちょうどプロデューサーとして独立したチャーリー.クロフォードがこのプランに乗ってきたので計画が進められることになりました。

クロフォードは、台本作家として女性のべラ・スペウァックを、歌詞作家としてはオグデン・ナッシュを考えました。

ヴィーナス役には、マレーネ・ディートリヒが候補に登り、ディートリヒも一時はかなりこの計画に関心を示した。

ところがスペウァックの台本では、かなり神格化されたヴィーナスにばかり重心が傾き、ワイキューブ氏を満足させることができなかったので、台本作家にはナッシュの友人であるシナリオ作家j.s.パールマンが急遽起用されることになりました。

パールマンは、ヴィクトリア時代の原作者が見たら仰天するような、エロティックでウィットにあふれた台本を書きあげ、ようやく計画は軌道に乗りだしたようにみえたが、今度はディートリヒが、このヴィーナスはあまりに「セクシーで俗だ」という理由で役をおりてしまった。

こういういくつかの暗礁に乗りあげながら、最後にヴィーナス役は、ディートリヒとはおよそ柄のちがうメアリー・マーティンにふられることになりました。

まだ名の売れだしたばかりのマーティンは、ヴィーナス役ときいてまったく自信をもてなかったが、結果として、この俗化されたヴィーナスは、まさにマーティンのはまり役だったのです。

ストーリーはおよそ次のようなものでした。

婚約したばかりの貧しい理髪師ロドニーが、博物館にいき、ヴィーナスの像の指に婚約指環をはめると、雷鳴が蘇きヴィーナスが甦る。

愛に飢えたヴィーナスに町じゅう追いかけられたロドニーは、許嫁の母親の家に逃げこむ。

しかし結局ヴィーナスは、ロドニーと豪華なホテルで一夜をともにすることができ、婚約を解消して自分と暮らすことを説きつける。

しかし、ロドニーの抱いている小市民的な生活感にヴィーナスはすぐに嫌気がさしてしまいます。

ロドニーは、彼女の奢移な生活の要求に応じられる夫ではなかったのだ。

オゾン・ハイッで平凡な主婦になって退屈しきったヴィーナスは、神々の国オリンポスからつかわされた使者によってふたたび連れ戻されます。

この皮肉な幕切れは、ボストンでのプレミアショウのとき観客に十分に満足を与えなかったので、新しい一場が書き加えられた。

ヴィーナスに去られたロドニーが、博物館を訪れ、楽しかった日々の回想にふけっていると、仲間にはぐれたひとりの少女があらわれます。

彼女はヴィーナスに生き写しだが、質素なみなりをしており、まるで「ヴィーナスの田舎の従姉妹」のようです。

ふたりは直観的に結ばれていることを感じ、手に手をとって舞台を去っていくところで幕がおりる。

あまりにもブロードウェイ的で、お見事というよりほかはない解決だが、この終景によって新しいオペラ・コミックをつくろうというワイキューブ氏の初期の考えからははるかに外れた作品になってしまった。
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2010年11月16日

両者を再会させた人

アウフリヒトは、両者を再会させて、『シュヴェイク』をつくろうというプランをもっていました。

小さないさかいはあったが、ハリウッドに移ってから映画のシナリオ一本を採用してもらっただけというブレヒトから見れば、アメリカですでに名声を獲得しているワイキューブ氏とのコンビを復活することに関心があったのは当然であるし、ワイキューブ氏のほうも、ブロードウェイの成功を得ながら、自分が本来の意図とは違う方向に押し流されていくのではないか、という不安はもっていました。

先に述べたように、

『ジョニー・ジョンソン』は、本来のアメリヵ版シュヴェイクという構想からは遠くかけ離れたものになってしまった。

だからワイキューブ氏が、『シュヴェイク』の改作に興味を抱いたのもうなずける。

43年2月にブレヒトはこの計画のためにカリフォルニアからニューヨークへ赴いています。

しかしブレヒトが希望していたのは『セチュアンの善人』の協力でした。

一週間の滞在ののちカリフォルニアに帰ったブレヒトは、六週間かけて『シュヴェイク』を完成し、ニューヨークへ送ったが、この構想にはワイキューブ氏もアウフリヒトも乗ってこなかった。

ブレヒトとしては、ロッテ・レーニアのためにわさわざコペカのおかみさんという重要な役まで書き加えたのだが、『シュヴェイク』が立派な作品ではあってもおよそブロードウェイに向かないことは、現在『シュヴェイク』を手にとることができるわれわれにも容易にわかることです。

クラウス・フェルカーは、ワイキューブ氏の拒否的態度を政治的立場からきたものとみているが、サンダースのいう市民権の取得の問題のほうが大きな比重を占めていたように思われます。

43年8月27日に、ワイキューブ氏は、ロッテ・レーニアとともに、ようやくアメリカの市民権を手にする。

アメリカになじまずいつまでもブロークンな英語しか喋らなかったブレヒトとちがって、ワイキューブ氏は本当にアメリカを第二の祖国と考えており、彼にむかってドイツ語を使うものがあると、烈火の如く怒ったという。

ブレヒトやアドルノに書くワイキューブ氏の手紙もつねに英語でした。

また、どこのドラッグストアでも食べられるアメリカ風のアイスクリームさえ、好ましいアメリカのイメージとつながるのだった。

さて、アメリカの反ファシズム・キャンペーン運動への直接参加を行なっていた時期の、ブロードウェイでの次の仕事は、『ヴィーナスの恋(ワン・タッチ・オブ・ヴィーナス)』です。

この構想は、『開の女』の衣装を担当した女性がワイキューブ氏に薦めた世紀末のイギリスのユーモア作家アニスティの短篇小説『色づいたヴィーナス』(1890)で、ロンドンの床屋が、ふとした悪戯心から許嫁に買った婚約指環を道傍のヴィーナス像の指にはめたところ、そのヴィーナスが生命をもって彼のあとを追うようになり、ようやく指環をヴィーナスから抜きとってもとの石像に戻すまでの滑稽な事件を描いています。

これも一種のピグマリオン談です。

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2010年11月15日

ミュージカル作家とワイキューブ氏

ミュージカル作家ハマースタインニ世の作詞した『夜勤シフトの相棒に』などは三二小節というアメリカの民謡の形式をなぞっています。

ただし、この民謡の形式も、二番と三番の調をハ長調から変ホ長調に移し、bの部分のメロディーラインはそのまま残して、三つの部分をまったく新しいものにしてしまうことによって芸術的エッセンスが加えられています。

昼のシフトの工員が、自分の仕事を引き継ぐ夜のシフトの知らない相棒に語りかける形をとったこの歌は、軍需生産の勤労意欲を高めるとりつ目的にも則していました。

ワイキューブ氏自身が「われわれもわれわれなりのやり方で、戦争の使命に寄与したと思う」と誇らしく記しています。

1943年3月9日には、ニューヨークで二万人の観衆を集めた「ウィ・ウィル・ネヴァー・ダイ」という、ナチのユダヤ人虐殺に対する抗議集会の音楽も作曲しています。

これはユダヤ人の血統を意識している彼としては当然の協力であったでしょう。

この年にワイキューブ氏は、ブレヒトと再会する機会をもった。

かつて『三文オペラ』をプロデュースしたヨーゼフ.アウフリヒトがその仲介をしたのです。

彼はアメリカに亡命してから、宣伝放送関係の仕事をしていたが、その枠のなかでブレヒトがのちに『第二次世界大戦のシュヴェイク』にとりいれた「兵士の妻は何を貰った」の作曲をワイキューブ氏に依頼したことから再会の機会が生まれたのです。

この歌には、のちにアイスラーも曲をつけています。

アイスラーの曲が、ロシアから死亡通知をもらったとりつ最後のストローフで悲愴感あふれる曲調に変わるまで軽快で明るい調子で歌われるのに対して、ワイキューブ氏の曲は、最初からハ短調の重い足どりのマーチで最後のストローフのみハ長調に転調し、重々しいなかに、皮肉にもほのかな明るさを漂わせるというまったく違った曲に仕上げられています。

ブレヒトがアメリカに定住して以後、ワイキューブ氏との間にちょつとした確執が起こっていました。

ロサンゼルスで『三文オペラ』を黒人によって上演する計画がもちあがり、ブレヒトがワイキューブ氏に承諾を求める手紙を出したところ、ワイキューブ氏がそれをにべもなく拒絶したという事件です。

この件には、初期からブレヒト/ワイキューブ氏作品の理解者であったフランクフルト学派のテーオドア・アドルノも関係しています。

ワイキューブ氏の拒絶状に対してブレヒトは『作業目誌』のなかに不快感をこめた短い記述を残しています。

ワイキューブ氏が黒人による上演を拒否するような差別感をもっていたとは思われないから、この場合はブロードウェイになじもうとしていたワイキューブ氏が、昔の「ドイツ時代」の作品のアメリカでの上演をあまり歓迎する気持になれなかったという理由のほうが納得がいく。

さらに、左翼的な過去の作品の上演がアメリカの市民権取得の障害になるのではないか、という政治的不安も原因にあげられているが、これは次の合作プロジェクトが実らなかった理由にもされているようです。

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2010年11月14日

戦乱も二年目

ヨーロッパの戦乱も二年目をむかえた1941年には、アメリカでは、自由を守れというスローガンのもとに、戦争参加を捉進する大衆運動が行なわれた。

「平和のための戦い」という組織が、文化人にもこの活動の参加を要請した、日本の真珠湾攻撃によってアメリカが参戦する直前の41年10月には、ニューヨークのマジソン・スクウェアで六千人の観衆を集めた大集会「自由であることはすばらしい」が行なわれた。

この催しの台本を書いたのは、劇作家ベン・ヘクトとチャールズ・マッカーサーであるが、アメリカの歴史をレヴュー的に構成したこの作品の音楽はワイキューブ氏が担当した・ドイツ人の亡命者にドイツ語で話しかけられるとあからさまに嫌悪の表情を示し、また批評で「ドイツの作曲家」と書かれると編集局に抗議文を送ったというワイキューブ氏は、ヒトラーのユダヤ人迫害のニュースにも刺激されて反ヒトラー・キャンペーンに打ちこんだ。

新しい祖国アメリヵへのこの熱烈な忠誠心はまったくの真心から出たものであるが、真剣すぎて奇異に感じられるほどだった。

アメリカの市民権がなかなか得られなかったために忠誠心を装った、とみるほうが人問的で理解しやすい(市民権は42年にようやく与えられた)。

しかし、これは誠心誠意の行動でした。

アメリカが参戦したのちには、彼は親友マクスウェル・アンダーソンとともに居住地ニューシティの民間防空隊員として、自発的に対空監視哨の勤務までしています。

春とはいえまだ寒気のきびしい1942年4月、厚い防寒具に身を包んだふたりが対空監視塔の前に立っている写真が新聞に出た。

ワイキューブ氏自身はまったく真剣な気持でこの任務についたのだろうが、報道記事には多少の皮肉がこめられています。

この時期にニューヨークの近辺まで敵機があらわれる、という可能性は万に一つもなかった。

この片隅の記事は、すでにアメリカで生活を始めていたブレヒトが、彼の有名な『作業日誌』のなかにスクラップして貼りつけておいたので、後世のわれわれの目にもふれることになりました。

ワイキューブ氏はその後も積極的に、アメリヵの反ファシズム宣伝運動に協力した。

対空監視員を勤めていた同じ42年4月には、女優ヘレン・ヘイズの催した愛国的な朗読の夕に伴奏音楽を書いているが、そのおりに作曲したウォルト・ホイットマンの詩はのちにオーケストラ曲に編曲しています。

この年には大統領ルーズヴェルト自らが反ヒトラー・キャンペーンに文化人が協力することを呼びかけた。

ワイキューブ氏がこの枠で協力したのは「ランチ・タイム・フォリーズ」と呼ばれる企画です。

これは工場などの昼食時に、作業員の娯楽と戦意高揚を兼ねたショウ番組を見せるというもので、スケッチ的な小品や歌で構成されたものであり、モス・ハートなどがその中心になっていました。

ワイキューブ氏は、ブルックリン大造船揚の千四百人の労働者たちを前にして行なったこの野外公演に新鮮な感銘を受けた。

この回想はエッセイに記されています。
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2010年11月13日

ワイキューブ氏のメロディー

ライザにはついに、自分がどんな女であるかがわかった。

彼女は支配するタイプの女ではなく、順応して生きる女なのです。

すると彼女に適した男は、実は若い宣伝部長チャーリー・ジョンソンではないのでしょうか。

最後の第四の夢、「子供時代の夢」は、彼女の成長の時期をふりかえって、彼女のコンプレックスを明らかにし、幼時体験ノイローゼから彼女を解放する。

ライザの母は早く死んだが、女性としてとうてい母と太刀打ちできないという劣等感に悩まされていました。

それに両親からはつねに「所帯じみた」女の子とからかわれていました。

学校に入っても、学校劇の王女の役を、相手の少年が彼女を「所帯じみている」と思っていると知っただけで引き受けられなくなりました。

その彼女も一度だけ、高校時代に、ある少年が、自分に心を動かされて自分より美しい少女を捨てようとする、という体験をした。

しかしそれはごく一時的なものだった。

彼女は女としての自分を拒否するようになったのだ。

それを分析医に指摘されると、彼女には次第に自分がチャーリーを愛していることがわかってくる。

そのとき彼女の頭に浮かんでくるのが、子供のとき父親といつも歌った「私のお船」です。

このメロディーはそれぞれの夢の導入部分と夢のなかで断片的にあらわれ、長年の間、ジェニーの心にひっかかってきたものを象徴するメロディーであることがわかる。

それが、ここではじめて歌詞を伴って全曲歌われることによって、彼女は精神的に解放されるのです。

「私の船には絹の帆がある」というロマンティックなテキストは、ずっと以前の『三文オペラ』の「海賊ジェニー」にある「八枚の帆をもった船」というテキストを連想させるが、「私のお船』はむしろ完壁なブロードウェイ・ナンバーです。

ワイキューブ氏が、劇中歌のなかで、アメリカ民謡調の三二小節のメロディーを書いたのはこれがはじめてです。

しかも彼は例外的にテキストができる前に作曲をしてしまっています。

ミュージカルの目的にぴたりとはまった、〈作りもの〉としての完成度を具え、甘い感傷で愛の牧歌的ヴィジョンを歌いあげています。

「海賊ジェニー」の暗い海賊船のイメージから、絹の帆をもったアメリカの船への転換は、ワイキューブ氏の7年の道程の終止符とみることもできる。

最後の幕があがるときには、ライザはもうチャーリーとの結婚を決めており、彼女は彼の妻となるばかりか、彼の始める新しい雑誌の協力者として、名実ともにベター・ハーフとなる。

まさに裏返しのない〈ハッピー・エンド〉だ。

デイヴィッド・ドリユーは、「ワイキューブ氏は『闇の女』において、音楽のなかから、彼の素性や教育の痕跡を根こそぎ追放することに成功した」と言っています。

〈個人的なものがほとんど認められない〉このスコアは、逆にいえば、アメリカに同化しようとしたワイキューブ氏の7年の辛い努力の個人的な決算書といえぬこともない。

1941年1月23日にアーヴィン劇場で行なわれた初演は空前の成功であり、上演は四六七回のロングランを続けたあと、全米各地に巡業した。

これによってワイキューブ氏の経済状態は完全に安定した。

ワイキューブ氏夫妻はマクスウェル・アンダーソンの住むニューシティのサウス・マウンテン・ロードに家を買い、今後の生活の根拠地をつくることができた。

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2010年11月12日

舞台は・・・

舞台は「魔法の夢」の場に変わる。

夢のなかではライザは、多くの讃美者に囲まれ、豪著な雰囲気のなかで、ニューヨークを一流のナイトクラブに至るまで歴訪する。

12人の崇拝者のコーラスの歌う「なんて素敵なひと」と「時の女」はヒット・ナンバーになりました。

夢の場はそれだけで独立した〈一幕の小オペラ〉とみなしてもよいでしょう。

この場面では、ワイキューブ氏はブロードウェイのミュージカルのパターンを完全にマスターしています。

次の場は編集室です。

愛人ケンダル・ネスビットは、ついに彼女に、妻と離婚するつもりだと告げる。

事務室のソファーで彼女は夢をみる。

そして「結婚の夢」の揚が挿入されます。

ここでは映画スター、ランディ・カーチスが編集室にあらわれ、即座に彼女を愛してしまいます。

映画俳優の歌うナンバーが「ディス・イズ・ニュー」です。

メロディーの最初のフレーズの冒頭二小節は、同じメロディーラインがそのままずらされて用いられているが、移行した音程は、かつてワイキューブ氏が好んで使った半音ではなく全音です。

同じことがリフレインのなかのふたつのフレーズにも生じている〔譜例13〕。

全音移行は、半音移行に比べてまったく異和感がなく、なめらかでごく自然に次のフレーズが発生したように感じられる。

だから攻撃性には欠けるが、恋する者の揺れる心理状態を表現するのには最適の技法です。

最後に夢は混沌とした悪夢に変わり、彼女の「プリンセス・オブ・ピュア・ディライト」というナンバーで終わる。

次の揚で、宣伝部長のチャーリーは、もうこの会社をやめるつもりだと彼女に言う。

そして、最後の仕事として、復活祭号の付録にサーカス特集をやるつもりだが、彼女に編集の責任者になる気はないかと尋ねる。

彼女は決定しかねるが、夢はサーカスに飛んでゆく。

「サーカスの夢」の場になります。

この場の有名なナンバーは「チャイコフスキー」で、チャイコフスキーの『悲愴』の第三楽章、タランテラと並存する行進曲のメロディーに続いてロシアの51人の作曲家の名をまくしたてるアイラ・ガーシュウインのテキストは、すでに1924年につくられたものです。

ダニー・ケイが初演でこの歌をうたったとき、1分間拍手がなりやまなかったという。

関係者が心配したのは、その1分後にヒロインの歌「ジェニーの物語」がでてくるので、それが「チャイコフスキー」に食われてしまわないか、という点でした。

決心しかねる女を歌った「ジェニーの物語」は、しかしその不吉な予想を裏切り「チャイコフスキー」に倍する成功を収めた。

サーカスはいつか法廷に変わり、ライザは優柔不断な態度のために告発されるのです。

次の揚で彼女はふたたび精神分析医を訪れる。

1週間経ち彼女の治療もこれで終わるのだ。
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2010年11月11日

ワイキューブ氏の意図

ハートは当時、既成のミュージカルの紋切型の作品を越えるものを書きたいという野心を抱いていました。

このころハートは、芸能人を多く患者にもつ精神分析医シルボーグにかかっていたが、その影響で精神分析にひじょうに興味をもち、それをテーマにしたドラマを書こうと考えました。

登揚人物の抱く夢想を独立した場面として示すというアイデアも、ワイキューブ氏の意図と合致するものだった。

ただハートは詩人ではなく、歌詞部分のテキストには不向きでした。

そこでワイキューブ氏は、ジョージ・ガーシュウーンの弟アイラのことを考えました。

ジョージは37年の7月に急死し、ワイキューブ氏を悲しませたが、その後引退したと伝えられる弟のアイラにチャンスを与えようと思ったのでしょう。

アイラはしばらく答を保留したのちに承諾を与えた。

ハートは、『アイム・リスニング』という仮題で構想をまとめると、イギリス出身のミュージカルスターで最近はヒットのないガートルード・ローレンスを、主役のライザ・エリオットに起用したいと考え、彼女を口説き落とした。

5月の中旬にアイラが到着し、ハートとワイキューブ氏の三人で1日12時間から16時間という強行軍で台本の完成を急いだ。

夢の場面の処理については何回も検討が重ねられ、8月末にアイラがカリフォルニアに帰るころには、ローレンスの希望で『闇の女』と改題されたこの作品はほぼ完成し、これを実現させる制作者サム.ハリスが腕を奮うときがきた。

夢の中の恋人役のランディ・カーチスにはヴィクター.マチュアが獲得できたが、彼はリフレインの部分をデュエットで歌うことができず、そこはエリオットがひとりで歌いました。

名コメディアン、ダニー・ケイは「チャイコフスキー」というナンバーで喝采を博すことになります。

上演は、かつて彼が渡米直後に『ポギーとべス』を見たニューヨークのアーヴィン劇場で行なわれることになりました。

41年1月23日に初日をあけたこの〈ミュージカル・プレイ〉は、大成功で、ワイキューブ氏はこの作品によって完全にアメリカの作曲家になったともいえます。

『闇の女』のヒロイン、ライザ・エリオットは、30代も終わりのモード雑誌の編集者です。

一時流行したこの雑誌は今はやや落目です。

彼女はここ数年、この雑誌の社主(出版者)であるケンダル・ネスビットの愛人であるが、彼は妻帯者です。

幕が開くと彼女が神経分析医を訪ねているところです。

彼女が情緒不安定なのはこの関係のせいでもあるが、医者に向かって彼女は、自分がよく激怒の発作に襲われることを告白する。

たとえば彼女は宣伝部長のチャーリー・ジョンソンに、午前中の会議の席上で文鎮を投げつけた。

そこで彼女が最近見た夢の分析が始まります。

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2010年11月10日

生涯続く収入源

ワイキューブ氏は「セプテンバーソング」によって、生涯続く収入源をひとつ得たことになります。

ワイキューブ氏の収入はだいぶ安定し、ロッテ・レーニアもしばしば歌手として契約するようになっていたので、37年から借りていた六十二番街の二階家を解約し、39年の初めからニューヨーク郊外サファーンの森に農家を借りた。

親しくなった作家アンダーソンの住むニューシティにも近くなった。

続いてアンダーソンと企画したのはミュージカルではなく、アメリカ版ユリシーズともいうべき『イーネアス.アフリカナス』というH.S.エドワーズの小説で、奴隷のイーネアスが主人の少佐を求めて三千キロの旅をする物語で、これを一種のミンストレル・ショウとして上演する計画だった。

もうひとつの企画は、ニューヨークの世界博覧会で、東部アメリカの二七鉄道会社の統合組織が企画した『鉄道オン・パレード』という大規模なショウで、1869年に最初の大陸横断鉄道が走ってから現在までの鉄道の発展を示し、主役は機関車になるはずでした。

しかしこの案はいずれも実らず、ワイキューブ氏は1939年秋には自作の初演がなにもないことを嘆かなければならなかった。

しかもこの秋には第二次世界大戦が勃発した。

ドイツの多くの友人は、国内で虐殺されたり、亡命地で命を落としたりした。

すでに合衆国を永住の地に定めていたワイキューブ氏は、多くの亡命者の苦難を耳にするたびに、自分の境遇を幸せと思ったことでしょう。

秋に彼は、アンダーソンの作詞による、ラジォ用のカンタータ『大憲章のバラード』を作曲しています。

現在から考えると、放送用のカンタータなどはマイナーな仕事に思えるが、当時はこのメディアの仕事ははるかに魅力的な意味をもっていたのです。

=二世紀にジョン王が権力を誤用したために、貴族が抵抗するという史実に仮託して、現在のユダヤ人迫害も暗示しながら、アメリカの自由を讃美しようとした作品で、40年2月に放送された。

「暴君に刃向かうことは神への服従を意味する」というモットーは、ワイキューブ氏の意に叶ったものであり、ユダヤ人ワイキューブ氏のアメリカに対する感謝と敬意がこめられています。

ワイキューブ氏はインタビューで、今後アメリヵ史のバラードをつくっていきたいと語っています。

39年11月にワイキューブ氏は、『ニッカボッカ・ホリデイ』の地方巡演を終えたヒューストンの催した。

パーティーの席上で、モス・ハートと知りあった。

彼はジョージ・S・カフマンと共作の劇を書いており、ミュージカル台本の作者でもあったが、この著名な作曲家ワイキューブ氏と一緒に仕事をしたいという希望を述べた。

ワイキューブ氏は、ミュージカルの演出家として経験が豊かなハッサード・ショートと話し合い、ハートと三人の会談を行なうことにした。

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2010年11月09日

体制批判の立場とワイキューブ氏

アンダーソンは、サッコ・ヴァンゼッティ事件を扱った『ウィンターセット』の作者であることからもわかるように、体制批判の立場を強く示し、当時はニューディール政策にも不信を抱いていました。

彼はこのアメリカの父祖たちの登場する歴史的なニューヨークのなかに、三つのタイプを示そうとした。

それは、自由を愛する反抗的な青年、その自由を利益のために利用する腐敗した詐欺漢、それにそうした詐欺漢の援助がないとやっていけない野心的な政治家(政権担当者)です。

彼はそのなかに登場するオランダ市長を、フランクリン・D・ルーズヴェルトの楓刺として描き出そうとした。

しかしプランが具体化するにつれて、批判があまりに痛烈になりすぎることを恐れた友人たち―そのなかにはのちにルーズヴェルトの伝記を書いた劇作家エルマー・ライスもいた―の忠告をいれ、あとのふたつのタイプを単なる滑稽な人物に変えてしまった。

友人たちといったが、このプロジェクトは新たに設立された劇作家協会(プレイライッ・カンパニー)によって進められることになっていました。

当時のトップクラスの劇作家、アンダーソン、シャーウッド、ライス、ハワード、ベアマンが自分たちの手で独自の制作を行なえるようにつくった自衛組織です。

メンバーの作品を順番に上演してゆき、相互のアドヴァイスによって作品をいいものにしようという設立趣旨が、結果的にはこの作品の颯刺的部分を骨抜きにし、不統一をもたらすことになったのは皮肉だが、『ニッカボッカ.ホリデイ』はシャーウッド作の『イリノイのリンカーン』と並んでこの計画の最初のものであり、仲間たちの力の入れ方が裏目に出た部分があるのはやむをえまい。

演出家には若冠29歳ながら、ブロードウェイで最近実力を認められてきたジョシュア・ローガンが想定された。

ルーズヴェルトのパロディーを弱めるようにというアドヴァイスは、このローガンからも出ているのです。

俳優ヒューストン獲得にまつわる逸話はすでに述べたので、作品の内容に触れておこう。

なおヒューストンが登場したおかげで、10月15日のワシントンの国民劇場の上演には、本来は標的のはずだったルーズヴェルト大統領が、親友ヒューストンのために珍らしく久しぶりに劇場に姿をあらわしたこともつけ加えておこう。

ルーズヴェルトは上演後に関係者をホワイトハウスに招待したーアンダーソンはいかなかったfほど上演を楽しんだが、ただ作中の「デモクラシーとは素人が政治を行なうことだ」という冗句だけはひどく気にして、いつまでも問題にしたということです。

10月19日に、ニューヨークのエセル・バリモア劇場で初演されたこの作品のあら筋はこうだった。

枠物語としてまずニューヨークの歴史の著述家ワシントン・アーヴィングが登場して1647年当時のニューヨークと、この作品の登場人物を紹介する。

この音楽はオペレッタ『ミカド』風の軽快なものです。

まだニューアムステルダムと呼ばれるこの町に、新しい総督ペーター・スタイヴェサントが海を渡って着任してくることになります。

この町の市会議長ティーンホーヴェンは、本来は汚職政治家のイメージを与えられるはずだったが、創作の過程でただの無害で滑稽な人物に変えられてゆく。

この男の娘ティーナは正義漢の青年プロム・ブレックと恋仲だが、父親はそれを許さない。

新総督の着任を待つ市民たちは、歓迎のアトラクションを計画しています。

それはプロムの死刑です。

プロムは、恋人の父ティーンホーヴェンと口論して彼の頭を殴ったために、死刑を宣告されたのです。

死を前にしてプロムはデュエットでティーナに別れを告げる。

ティーナは町の決定で、到着するやもめの新総督と結婚することになっています。

反体制的で独立精神をもつプロムは、死に臨んで、自分を最近流行の、残酷で苦痛の長い、腹を縛って吊るす方法ではなく、昔通りの絞首刑で処刑してくれと懇願するが却下され、腹を縛って吊るされます。

着任した新総督は、腹を縛られたおかげでまだ元気なプロムを見て、恩赦してやれと言いながら、以後は、どんなにわずかな反抗でも容赦しないと釘をさす。

さて、ただちに結婚させられることになっているティーナがスタイヴェサントに猶予を願うと、そのときにこの初老の新総督の歌うナンバーがあの「セプテンバーソング」なのです。

そこにまた恩赦されたプロムが顔をだし、この結婚にあくまで反対だというので、総督は彼を逮捕させて牢に放りこむ、結婚式は予定通り進められています。

ティーナはひそかに牢獄のプロムを訪れて愛を誓う。

平穏な町の生活はインディアンの襲撃によって破られる。

プロムは牢獄を脱出し、戦闘に参加して、逮捕されそうになった総督を救う。

総督が死んだと思った市民たちは、早とちりの「弔歌」を歌うが、このメロディーはどことなく『ベルリン・レクイエム』に似ています。

命を救われたくせに、結局総督は、プロムを絞首刑にしようとする。

すると枠物語のなかからアーヴィングがあらわれて、後世の非難を浴びぬようにするには、プロムを処刑すべきでないと説得する。

スタイヴェサントがその忠告を容れてプロムを許し、若いふたりの結婚を祝福するどんでん返しのハッピーエンドは、「三文フィナーレ」を思わすような手法です。

最後の歌は一幕にも用いられた「ハウ・キャン・アイ・テル・アンナメリカン」です。

曲風からいえば、全体はヴオードヴィル風のものとオペレッタ風のもののコンビネーションであり、「イット・ネヴァー・ウォズ・ユー」のように典型的なブロードウェイの感じをもった歌もあります。

この曲がきわめてブロードウェイ的である理由は、曲全体に漂う甘いムードもそうであるが、なんといっても曲の終わりが好情たっぷりに歌いあげられていることです。

メロディーあるいは伴奏が、このように上行して終止する方法は、ヨーロッ。

ハ時代のワイキューブ氏の作品にはみられない技法であり、アメリカにきて書いたミュージカルでも、後期の作品になるにしたがって多くあらわれる特徴である〔譜例12〕。

しかしサンダースは、この作品がワイキューブ氏のブロードウェイに順応した最初の作品という評価には与せず、ブロードウェイ風のものにもパロディー的な色彩が強いことを指摘し、「セプテンバーソング」でさえ「スラバヤ・ジョニー」とひじょうに類似点があると言っています。

ちなみにこの二曲を比べてみると、ともに四分の四拍子で、ストローフとリフレインの出だしがリズム的に似ています。

しかし全体としてみると、「スラバヤ・ジョニー」の方がはるかに攻撃性の強いソングになっています。

劇作家協会の試みとして、シャーウッドの『リンカーン』劇の4日後に初演された『ニッカボッヵ.ホリデイ』は、前者と比較して批評されることが多かった。

概してドラマとしてはシャーウッドの方がすぐれているが、それがワイキューブ氏の音楽や演出によってヵバーされた、という調子でした。

観客の出足はよく、2月にはもっと座席の多い大劇場に移して続演したほどだったが、それが限度で、4月初めから地方巡業に出ることになりました。

劇作家協会からいえばまずまずの成功でした。

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2010年11月08日

プランに同意

1938年4月に2度目のハリウッド滞在から戻ったワイキューブ氏は、ニューヨークの近くのニューシティに住む劇作家マクスウェル・アンダーソンを訪れた。

アンダーソンは当時35歳、ブロードウェイの劇作家としてももっとも実力があるといわれている人でした。

彼が昔ローレンス.スターリングと共作した、前線の兵士を扱った劇『ライバル』は、かつてドイツでもラインハルトの手で上演されたことがあります。

『西部戦線異常なし』のシナリオも彼の手になるものでした。

ワイキューブ氏はアンダーソンとはすでに36年初めごろあるパーティーで会ったことがあり、そのときワイキューブ氏の方から、共同で作品をつくりたいと提案したといわれています。

アンダーソンは、まだ手を染めたことのないミュージカルという領域に自信がなかった。

それにミュージカルはまだ、純粋な劇作家から見ると次元の低いジャンルと思われていたのです。

『ジョニー・ジョンソン』の印象から、アンダーソンは、ミュージカルにおいても作家がただ音楽の台本を提供するのではなく、作家と作曲家の共同作業を可能にするものだということを悟ったようです。

ニューシティに1週間滞在する問に、このプランは急速に具体化した。

アンダーソンは、ワシントン・アーヴィングの『ディートリヒ・ニッカボッカのユーモラスなニューヨーク物語』を粉本にしてミュージカルをつくらないか、という提案を行なったのです。

ワイキューブ氏が、アメリカの歴史やフォークロアに非常に興味を抱いていたことは、いくつかのプランからもうかがえるが、この作品は、初期のニューヨーク(ニューアムステルダム)のオランダ系移民の世界を扱っているという点で、ヨーロッパとアメリカを結ぶ線も認められた。

そういうわけで、ワイキューブ氏もこのプランにただちに同意したばかりか、アメリカではあまり知られていないロルツィングの『皇帝と大工』にでてくる滑稽なオランダ市長のイメージを話したほどだった。


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2010年11月07日

ニューヨークに帰る

クリストフ・ワイキューブは6月末にニューヨークに帰りました。

ここでは『デヴィー・クロケットのバラード』というミュージカルの話もかかったが、これも実現しませんでした。

この年の12月にクリストフ・ワイキューブはまたハリウッドに赴いたが、それはドイツからアメリカに移住した名監督ブリッツ・ラングのアメリカ第三作『君と僕』の音楽の仕事でした。

ラングは、これを単なる喜劇とはせず、ブレヒトの教育劇風なものにし、クリストフ・ワイキューブに作曲を担当させようとしたのだが、結局は普通の映画の枠を出るものにはならず、クリストフ・ワイキューブはたった二曲を作曲しただけでした。

実現されなかった多くの計画―この他にも洩れているかもしれないーをここにあげたのは、アメリカの芸能界の制作の方法が、あまたのプランをふるいにかけて、最後に商品化できる見通しのあるものを上演や映画化にもちこむというシステムを示すためでもある。

のちに、クリストフ・ワイキューブが数ヵ月住んだサンタ・モニカに亡命するブレヒトも、アメリカの芸術の売り方にはまったくなじまなかった。

だがクリストフ・ワイキューブは、多くの計画が立ち消えになったこの1年のことをさほど苦にしたようにはみえない。

この年の夏に彼はアメリカを第二の故郷としてアメリカの市民権をとることに決め、移住ヴィザをもって戻ってくるためにわざわざカナダにでかけているのです。

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2010年11月06日

クリストフ・ワイキューブの出発点となった作品

ラインハルトは、ザルッロフルク蘭祭の出発点となった『エヴリマン』劇―ホーマンスタル作でドイツ名は『イエーダーマン』ーで世界各国を巡演したことがあったが、この作品のアメリカ版を制作上演する計画をもっていました。

クリストフ・ワイキューブはその台本作家としてポール・グリーンを推薦し、自らが作曲に当たろうと考えました。

グリーンもこの仕事に大いに興味を示し、クリストフ・ワイキューブと何回も接触しました。

結果から先にいえば、アメリカ独立戦争時代の、ジョニー・ジョンソンのような平均的アメリカ人を扱う『ザ三モン.グローリー』という戯曲がある程度進行しただけで、結局はこのプロジェクトは成功せず・ラインハルトとの仕事は『永遠の道』が最初で最後となった。

もうひとつは、ビバリー.ヒルズにあったガーシュウイン邸のパーアfで知りあった知人たちと企てたプランで、劇作家スペックが台本を・ハーバークが作詞を、クリストフ・ワイキューブが作曲を担当、ヨーロッパを追われてアメリカに巡業するユダヤ人の旅まわり劇団のことを扱った音楽劇です。

ワンガーが制作しようとしていた映画は、かつてパプストの監督した『懐しの巴里』(エレンブルク原作)の再映画化で、オデッツがムロ本を書き、『西部戦線異常なし』の監督マイルストンが監督に当たることになっていました。

このプランは、当時世界の耳目を衝動させていたスペイン内乱を扱う作品に変わってきて、『スペインの城塞』もしくは『川は青い』というタイトルをもつことになりました。

最後には、『封鎖』というタイトルに決まったがこの映画は結局実現しませんでした。

ミュージカルの話としては、モルナールの『リリオム』の作曲の話があったが、原作者がミュ!ジカル化を拒否したので、これも実現しませんでした。

ずっとのちにモルナールはミュージカル化を許可し、それがロジャースとハマースタインニ世の『回転木馬』になりました。


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2010年11月05日

新しい仕事

37年1月には、クリストフ・ワイキューブの作品が二本もニューヨークで上演されていたわけであるが、今後の生活を考えれば、新しい仕事に次々と手をつけていかなければならなかった。

しかしこの年に計画した仕事の多くは、実現を見ずに終わりました。

経済的にいえば、ハリウッドのほうがいろいろな見込がありそうだった。

この地域にはマン兄弟はじめ多くのドイツ亡命者が住んでいました。

音楽家としては、バークレイの教授になったシェーンベルク、ストラヴィンスキー、アイスラーなどがここに定住していました。

音楽家にとって、経済的に手っとり早く潤う仕事は映画音楽の作曲です。

クリストフ・ワイキューブはハリウッドにとくに魅力を感じていたわけではなかったが、かつてグループ・シアターの劇団員だったウォルター・ワンガーがハリウッドに食いこんで、劇団の多くの友人に仕事を斡旋しており、クリストフ・ワイキューブにも映画音楽の仕事をみつけてくれたのです。

『ジョニー・ジョンソン』を映画化する話や、ロサンゼルスで上演する話もあり、クリストフ・ワイキューブは万の末に、三日間の大陸横断列車の旅を続けてハリウッドに到着しました。

ここで『真夏の夜の夢』の映画化に当たっているラインハルトも訪問した。
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2010年11月04日

アメリカのミュージカルとクリストフ・ワイキューブ

36年5月、クロフオードはクリストフ・ワイキューブとともにグリーンの住むチャペル・ヒルに赴いた。

ふたりは別々に出発したので、間違った駅で下車してしまったクリストフ・ワイキューブを、グリーンが自動車で捜しにゆくという小事件はあったが、その後三者の話し合いは順調に進みました。

クリストフ・ワイキューブの希望が尊重され、『シュヴェイク』風の人物をアメリカ的に創造するにはどうしたら可能か、という具体的な話題が進められた。

参考として、ビューヒナーの『ヴォイツェック』やツックマイヤーの『ケローペニックの大尉』、それに表現主義劇作家トラーの反戦劇『変容』や『どっこい生きている』などが話題に上った。

トラーは、当時アメリカでもっとも知られたドイツの現代劇作家であり、最終的にもグリーンの台本にかなり影響を残している。

一週間のカロライナ滞在の後、クロフオードとクリストフ・ワイキューブは、シノプシスをもってニューヨークに帰ることができました。

こうして、クリストフ・ワイキューブ自身もドイツからアメリカへのブリッジとみなした、クリストフ・ワイキューブの最初のミュージカル作品が誕生することになります。

アメリカのミュージカルの歴史を眺めると、まだイギリスの植民地だった1751年に上演された『乞食オペラ』がその誕生と深い関わりをもつことがわかるが、そのことからクリストフ・ワイキューブとミュージカルとを結ぶ路線がすでに運命によって敷かれていたと考えるのは、少し考え過ぎでしょうか。

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2010年11月03日

意気投合

クラーマンは『三文オペラ』の作曲家と意気投合し、グループ・シアターの試みとしてミュージカルを上演するというアイデアにとりつかれた。

この劇団はまだミュージカルを上演したことはなかったが、クリストフ・ワイキューブの作曲であれば可能だと考えたのです。

そこで彼は、クリストフ・ワイキューブをストラスバークにも紹介して具体的な話し合いに入りました。

クリストフ・ワイキューブは、台本には「アメリカ的なテーマ」の作品を希望したが、たとえば20年代終わりにピスカートアが脚色上演したハシェークの『シュヴェイク』のような作品も面白いのではないかとつけ加えた。

ストラスバークに言わせれば、『シュヴェイク』はヨーロッパ的すぎてアメリカには向かない作品でした。

しかしいずれにせよ、クリストフ・ワイキューブのための台本の執筆者を探さなければなりません。

クラーマンが白羽の矢を立てたのは、劇団が創立当時に上演して好評だった『コネリーの家』の作家ポール・グリーンでした。

グリーンは第一次大戦に従軍した経験をもち、故郷北カロライナ州で南部の歴吏に取材する劇作を発表していました。

20年代にドイツに滞在したこともあって、クリストフ・ワイキューブやピアスカートアのこともよく知っていました。

彼こそクリストフ・ワイキューブの台本執筆者として最適な人物と考えたクラーマンは、まず彼の内諾を得ました。

クロフオードもこの計画を全面的に支持し、『シュヴェイク』の英訳台本を参考のためにグリーンに送りました。

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2010年11月02日

クリストフ・ワイキューブはニューヨークに留まるつもりだった

失意のブレヒトはその年の暮れもおしつまったころに亡命先のデンマークに戻るが、クリストフ・ワイキューブはこのおりに何回かブレヒトとも会っている。

『約束された国への道』、英訳題名『永遠の道』の上演計画の方は、齪蠕が重なり、12月から1月に延期され、2月には稽古も中止されて、制作者ワイスガルが二五万ドルの出費を回収しないまま無期延期になりました。

ラインハルトは『真夏の夜の夢』の演出にハリウッドへいき、ヴェルフェルはウィーンに帰りました。

クリストフ・ワイキューブ夫妻は八十七番街のささやかなホテルに居を移し、新しい仕事を探す必要に迫られた。

アイスラーのように音楽学校の教職につく道も考えられたが、彼への職の提供はなかった。

クリストフ・ワイキューブはとりあえずニューヨークに留まるつもりであったが、ヨーロッパに帰らざるをえなくなる日のくることも考えて、フランスのルーヴシアンヌの借家の契約を更新しておいた。

そんなとき、彼はあるパーティーの席上で演出家ハロルド・クラローマンに会いました。

戦後来日してオニールを演出したこともある彼は、当時ニューヨークで有名だった劇団「シアター・ギルド」から分かれて独立したグループ.シアターの若手演出家だった。

グループ・シアターは座員が共同で生活する革新的な劇団として出発し、左翼的な作家クリフオード・オデッツの『レフティを待ちながら』や『醒めて歌え』の上演によって注目を集めていました。

ついでにいえば、オデッツの上演はブレヒトがアメリカで感銘をうけた唯一のものでした。

クラーマンのほか、のちのアメリカを代表するリー・ストラスバークと女性のセリル・クロフオードという演出家がトロイカ方式で劇団を運営していました。


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2010年11月01日

ニューヨークの摩天楼

はじめてニューヨークの摩天楼を見たクリストフ・ワイキューブには、〈約束の国〉アメリカは、1926年に完成したラングの未来映画『メトロポリス』のように感じられたことであろう。

アメリカはすでにニュー・ディール政策によって大恐慌の痛手から回復しつつあった。

セントラル・パーク近くのホテルに仮りの住いをとったクリストフ・ワイキューブ夫妻は、精力的にこの未知の国を歩きまわり、ジャズへの関心から黒人居住区にも足をのばしたりもしました。

10月にはギシュウィンのオペラ『ポギとべス』の稽古にも立ち会い、ガ↓ユウィン兄弟とも交遊することになりました。

クリストフ・ワイキューブの名は、すでにアメリカでも一部の人びとにはよく知られていました。

『三文オペラ』は1933年に上演されていたし、映画『三文オペラ』やレコードも、一般には違和感をもって迎えられたとはいえ、識者の評価は得ていました。

しかしロッテ・レーニアの歌については、まだアメリカで理解される段階ではなかった。

ジョージ・ガーシュウィンは、クリストフ・ワイキューブに向かって、『三文オペラ』のレコードはすばらしかったがあの「しゃがれ声の」女の歌手はいただけないと言ったが、それが同席しているクリストフ・ワイキューブ夫人ロッテ・レーニアだということをあとから知って当惑したということだ。

クリストフ・ワイキューブの曲の指揮者として知られるレーマン・エンゼルもこれとまったく同じ失敗をやらかしたという。

同じ年の秋に、ブレヒトは、左翼系の劇団シアター・ユニオンが彼の脚色したゴーリキーの『母』を上演する機会に、作曲者のアイスラーとともにニューヨークに招かれました。

しかしブレヒトは、自作をブロードウェイ風の商品にしてしまったアメリカの上演のやり方に不満で、招待者側と衝突した。

しかも上演はひどい失敗に終わりました。
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2010年10月31日

四人の会合とクリストフ・ワイキューブ

ヒトラーのベリヒテスガルテンの山荘も指呼の間にあるザルツブルクで、1935年8月には、ワイスガルもまじえた四人の会合が行なわれた。

ヴェルフェルは、制作者の旧約を中心にしたユダヤの歴史を扱いたいという要望に応えて、枠として、現代に、ある国を追われることになったユダヤ人たちの集会の行なわれているユダヤ教会(シナゴーグ)の場面を基調にした。

現在のシナゴーグで集会に参加したユダヤ人たちに、旧約のアブラハムやモーゼなどの事跡が朗読され、それにオーバーラップして過去の物語が演じられる。

最後には、現在受難しているユダヤ人たちが、過去のアブラハムやモーゼの先例のように、〈約束の国〉イスラエルへ旅立つことになります。

過去の部分は韻文で、現在の部分は散文で書かれており、多くの歌やコーラスを含むが、上演は歌手より俳優を考えた音楽劇で、〈民衆的オラトリオ〉とも呼ばれている。

ヴェルフェルの示したいくつかの詩は、クリストフ・ワイキューブにユダヤ的な血統を意識させることになりました。

クリストフ・ワイキューブは34年夏の会談のあと、子供のころから覚えているユダヤ的なメロディーを二百あまり譜に起こし、図書館でその由来を調べて、近代のオペラや流行歌に起源をもつものを排除しました。

この作品では、クリストフ・ワイキューブは民衆的で素朴なメロディーを用いようとしており、ベルリン時代のオペラに見られるようなモダニズムはまったくみられない。

クリストフ・ワイキューブは誠実にーブレヒト風にいえば殊勝にというところかーこのオラトリオの仕事にとりかかった。

ザルツブルクの四者会談のあと、クリストフ・ワイキューブ夫妻はワイスガルに同行して「マジェスティ号」の船客となり、1935年9月10日にアメリカの土を踏んだ。

上演は12月に予定されており、ラインハルトは『真夏の夜の夢』の演出の仕事でいずれにしても渡来することになっていました。

彼は『約束の国』を野外劇を使って上演したいと考えており、その線にそって上演の場所が求められたが、望ましいものがみつからず、結局は三+四番街のマンハッタン・オペラハウスを使うことになり、制作のベル・ゲッデスが内装の変更に着手した。

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2010年10月30日

提案

しばらくたってラインハルトの行なった提案は、作家としてフランツ・ヴェルフェルを、作曲にクルト・クリストフ・ワイキューブを起用するというものだった。

ふたりともユダヤ系の作家とはいえ、ワイスガルにとっては、はじめこの提案はひどいショックだった。

彼から見れば、ヴェルフェルのカトリックへの改宗はシオニストとして受け入れがたいものだったし、またクリストフ・ワイキューブは、アメリカの成功者としての彼の目にはコミュニストと映っていたからです。

しかし、ラインハルトはこの計画を推進した。

当時フランスのルーヴシアンヌに居を構えていたクリストフ・ワイキューブは、ラインハルトから通知を受けとり、1934年7月にヴェルフェルとともにラインハルトのヴェネチアの邸宅に招かれました。

そのあとラインハルトは、もとは支配者のレジデンツであったザルツブルクの自邸レオポルトクローン城でこの三者会談を継続した。

ヴェルフェルは、表現主義の〈おお人間よ!〉調の創始者といわれた作家で、初期のブレヒトが拒否するタイプの打情詩人であり、このころはマーラー未亡人のアルマと生活していました。

クリストフ・ワイキューブはブレヒトと違って、初期の『交響曲第一番』がベッヒァーの詩に触発されて生まれたように、宗教的なものに対して心を開いているところがあった。

演出家ラインハルトが、これまで仕事をしたことのないクリストフ・ワイキューブの名をあげたのは不思議だが、この共同チームは事実よく機能し、のちには制作者ワイスガルも加わり、四人で怒鳴りあえるほどの親密さも生まれたのです。

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2010年10月29日

クリストフ・ワイキューブ・亡命の生活

パリでの亡命の生活は、このあとにもちあがったアメリカ行きの仕事の話で、クリストフ・ワイキューブ自身の意志とは関係なく終止符が打たれることになりました。

『約束の国への道』亡命のヴィザをとるために何年も苦労したブレヒトの場合とは違って、クリストフ・ワイキューブは早い時期に仕事でアメリカにゆくチャンスをつかみ、亡命者か移住者かはっきりしない形で入国したアメリカに永住することになります。

クリストフ・ワイキューブにそういう機会を与えた仕事のタイトルが『約束の国への道』―のちに『永遠の道』と改題―というのも因縁めいた感じがする。

ここで彼をアメリカに招いたプロモーターであるばかりか、クリストフ・ワイキューブにユダヤ人という血統を意識させることにもなった人物を登場させなければなりません。

ポーランド生まれの亡命ユダヤ人で、早くからアメリカに渡り、成功者に数えられるようになったメイヤー・ワイスガルです。

彼は熱烈なシオニストであり、30年代からは私財を投じ劇場を通じてシオニズムの運動を普及しようと企てて、1931年には、シカゴでマカベウスの勝利を扱ったオペラを、33年には旧約に示されたユダヤ民族の歴史を扱った『ザ・ロマンス・オブ・ザ・ピープル』を制作上演してかなりの成功を収めた。

ナチスの成立によって、ユダヤ民族に対する迫害が増大するという状況は、シオニストである彼に、反ヒトラーキャンペーンを行なわなければならないという使命感を与えた。

彼はユダヤ系の芸術家の亡命リストを調べたり、また、世界的な演出家マックス.ラインハルトがドイツを去るかもしれない、という風評も耳にした。

そこでワイスガルは、この巨匠を、自分の新しいプロジェクトの演出家として獲得しようと決心した。

彼はそのためにわざわざ渡欧し、パリのピガール座で演出中のラインハルトに会見する機会をうかがった。

彼はようやく手をつくしてついに会見に成功し、数時間にわたって熱弁をふるったが、ラインハルトはときどき「そう、そりゃ面白い」と合の手を入れるだけで、話を聞いているのかどうかも疑わしいほどだった。

しかし制作者としても能力を超えていた彼は、旧約を中心にした音楽劇をユダヤ系の芸術家の手で生みだしたいというプランの骨子を正確に把握していたのです。

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2010年10月28日

娯楽劇台本

1934にクリストフ・ワイキューブは、ジヤック・ドゥヴァルの娯楽劇台本、『マリー・ギャラント』の作曲をした。

かなりたくさんの歌が入っているので、仕事量からいえばミュージカルの作曲に匹敵するものだった。

作品はロマンチックなメロドラマです。

マリーは数年前、船長に誘拐され、故郷の町ボルドーからパナマ市に流れてきた。

船長の言いつけに従わないので彼女はパナマに置き去りにされ、望郷の思いに身を切られながら日を過ごしている。

今は彼女は中年の日本人の世話になっているが、この日本人は軍事探偵であり、マリーが彼の仕事に協力してくれれば、故郷ボルド!に帰る旅費を与えると言う。

そこでマリーは心ならずもスパイの仕事を引き受け、その仕事で命を落とす。

彼女の死体だけが、棺で故郷の町に運ばれます。

1934年12月22日にパリ座で初演された『マリー・ギャラント』では、『三文オペラ』のフランス上演でポリーを歌った有名なシャンソン歌手、フロレルがマリーを歌った。

まずまず成功であったが、『ハッピー.エンド』と同じ曲を二曲含んだ作品のうちの何曲かは、フランス人の好みにあい、かなり流布されました。

マリーの「わたしは船を待っ」という歌などは、第二次大戦末期、連合軍のフランス進攻を待っているレジスタンスの闘士たちに愛唱されたということです。

ひどい失敗だったといえるのは、アウフリヒトの劇場の文芸部員だったロベルト・ヴァンベリがもちこんだ台本、『牝牛の王国(ドイツ名『牝牛の売買』)』です。

ロンドンのサヴォイ座で1935年7月に初演されて大失敗に終わったこの作品に、クリストフ・ワイキューブは「ふたつの心」などいくつかの歌を作曲しているが、クリストフ・ワイキューブ自身、この歌の演奏を許していませんでした。

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2010年10月27日

クリストフ・ワイキューブ作品の演奏

クリストフ・ワイキューブの作品の演奏は、すでに亡命以前からナチスの妨害をうけていました。

33年2月21日には、マクデブルクにおける『銀の湖』の上演がナチグループによって妨害され、3月4日には、同作品のライプツィヒ上演が阻止されている。

そしてこれ以後、終戦の45年まで、彼の作品のドイツにおける演奏は、事実上不可能となったのです。

ちなみに、41年に書かれた『音楽界のユダヤ人名簿』には、「この作曲家の名前はわれわれの芸術に対するもっとも悪辣な破壊と切り離せない関係にある」と記されている。

こうした状況のなかで、『交響曲第二番』の初演も、ドイツではなく、34年10月11日、アムステルダムにおいて行なわれた。

亡命生活が長びくと、クリストフ・ワイキューブの生活も次第に逼迫してきた。

ノアイユ伯夫人の家から、クリストフ・ワイキューブは、パリ郊外サン・ジェルマンの近くのルーヴシアンヌに移った。

かつてのマダム・デュバリの館の使用人の家を借り、そこで2年間の亡命生活を送ることになるのです。

ユニヴァーサル・エディション社が、ナチスの妨害を恐れて、33年夏にクリストフ・ワイキューブと解約すると通告してきた。

ドイツの口座は凍結されました。

クリストフ・ワイキューブは注文に応じてシャンソンを作曲するようになりました。

フランスのシャンソン歌手、リュ・ゴーティのために書いた『ユーカリ』というシャンソンを聞くと、クリストフ・ワイキューブの適応性に驚かされます。

この歌や、ジャン・コクトーの家を訪れたとき即興的に生まれた『雨ぞ降る』(コクトー作詞)などはまったくフランス的です。

しかしパリにきて、マレーネ・デイートリヒのための、エーリヒ・ケストナーの辛辣な詩『別れの手紙』につけた曲などはまさにドイツ風シャンソンだ。

この歌は、さまざまの事情でディートリッヒの持ち歌にはならなかった。
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2010年10月26日

見通しをつけるために

パリを訪れることは、一時的な収入だけでなく、今後の見通しをつけるためにも重要なことでした。

ブレヒトは亡命後の定住地すらまだ決めていなかったのです。

ブレヒトはクリストフ・ワイキューブに、バレエを芸術形式としてあまり重視していないが歌も踊りもある台本のアイデアならもっている、と答えた。

これが『小市民七つの大罪』の原案です。

ア・カペラの合唱に、中間部だけ舞台上の人間によるギターの伴奏がつく。

アルペジオと分散和音の伴奏です。

同じような分散和音の音型は『三文オペラ』の「メロドラマ」にもみられるが、ここでは、「三日月パン、カツレツ・・・」などと食べものの名をあげて、ルイジアナに帰れば食べたいもの終焉を宜言するものかということを問題にしてもよいでしょう。

わたしはこの点ではかなりペシミストなので、問題を提示するだけにしておきたい」。

これは『交響曲第二番』初演当時のアンリ・モネの批評であるが、この曲をソング・シンフォニーと呼び、『マハゴニー』や『三文オペラ』が従来のオペラの終焉であったように、この曲を肯定すれば、これまでのコンサートという概念が否定されると語っていることは興味深い。

つまり『交響曲第二番』は、「コンサートは、もはや〈上流社会の社交場〉であってはならず、音楽を愛することのできる多数の民衆のための高次の憩いのひとときであるべきだ」と述べたクリストフ・ワイキューブの具体的な実践と考えられるのです。

あるいは、音楽をコンサート会場から生活の揚にひきだすための挑戦状なのかもしれない。

しかし、このときクリストフ・ワイキューブは、劇音楽におけるセンセーショナルな成功を器楽作品の領域では果たすことができなかった。

そしてこの曲を最後に、純粋な器楽曲の作曲をやめてしまうのです。
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2010年10月25日

クリストフ・ワイキューブのコンサートで

12月に彼女はパリのコンサートで歌ったが、そのあとクリストフ・ワイキューブと一緒にベルリンに帰ったかどうかははっきりしていない。

ナチスが政権を獲得したのち、ブレヒトは国会放火事件の直後にドイツを離れたが、クリストフ・ワイキューブは3月になってもまだベルリンにいた。

3月22日に、彼はある友人から、まもなく秘密警察が彼を逮捕しにくるという情報をうけて、身のまわりのものだけをもって自動車をフランス国境に走らせた。

一説には国境の寸前で車を捨て、徒歩で国境を越えたともいわれるから、相当危険な旅だったのであろう。

こうしてひとまずパリにたどりついたが、パリでロッテ・レーニアが彼と一緒にいたかどうかも不明です。

確実にいえることは、辛い亡命生活が契機となって、クリストフ・ワイキューブとロッテ.レ!ニアの愛の絆がふたたび強くなったということです。

クリストフ・ワイキューブは、パリでかつての弟子アブラヴァネルに再会した。

彼はすでにパリのバレエ団「レ・バレエ1933」の専属指揮者のポストを得ていて、その彼から7月に上演するバレエの作曲の依頼を受けたのです。

アブラヴァネルはフランス語を母国語とする人なので、フランス語のうまくないクリストフ・ワイキューブにいろいろの援助を与えた。

またノアイユ伯爵夫人は、クリストフ・ワイキューブに持ち家を住居として提供してくれた。

さてバレエ曲については、期日も迫っているのに、台本さえ決まっていない。

クリストフ・ワイキューブはもう一度、不和になっていたブレヒトとの協力を考えました。

フランスにおける成功の際にも、クリストフ・ワイキューブの名はしばしばブレヒトと一緒に話題になったし、今後の協力の可能性について尋ねられたこともあったでしょう。

彼は、スイスに亡命中のブレヒトに台本作成の可能性を打診するとともにパリに招いた。

ブレヒトにとっても、。

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2010年10月24日

パリ

『銀の湖』の初演はナチスの政権獲得の寸前だったが、クリストフ・ワイキューブはそれに先立つ1932年の慕れに、パリで催されて大成功を収めたクリストフ・ワイキューブーコンサートに招かれている。

これを企画したのは、「セレナード」という室内楽協会で、ド・ノアイユ伯夫人、アメリカのシンガー・ミシンの遺産相続者で大富豪のエドモンド・ド・ポリニャック公爵夫人などが後援者となり、フランスの指導的な作曲家のほとんどが名を連ねている協会だった。

演奏はパリのギャヴォー・ホールで行なわれ、ソングプレイ『マハゴニー』と『イエスマン』がコンサート形式で演奏されました。

オーケストラもドイツから招かれ、アブラヴァネルが指揮し、ロッテ・レーニアも歌った。

会場には、ストラヴィンスキー、オネゲル、ミヨー、コクトー、ピカソ、ジッドなどという名士が姿を見せ、批評は最大の讃辞を惜しまぬという大成功を収めた。

これがのちに、クリストフ・ワイキューブとブレヒトをもう一回だけ協力させる機縁をつくるのです。

このころ、私生活の面では、クリストフ・ワイキューブ夫妻の仲はかなり冷えていたといわれる。

ロッテ・レーニアは、この問題に関してまったく口をつぐんでいるが、作曲の仕事を第一義と考え、それに没頭するクリストフ・ワイキューブの生活に、彼女が物足りなさを覚えたのは当然推測されることです。

当時レーニアがある種の情事をもっていたことは事実らしく、彼女のように開放的でない真面目人間クリストフ・ワイキューブの側にさえ、なにかがあったような気配もみえる。

1932年にロッテ・レーニアは、映画の仕事でソヴィエトにいく機会をもった。

ピスカートアがアンナ・ゼーガースの小説『聖バルバラ島の漁師の反乱』を映画化する仕事にかかっていて、レーニアもこの映画に出演することになっていたのです。

しかし、この映画はスターリンの干渉で結局日の目を見ずに終わりました。
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2010年10月23日

長調と短調の間とクリストフ・ワイキューブ

「シーザーの死の歌」にもあらわれる長調と短調の間の揺れは、クリストフ・ワイキューブの音楽の基本的な特徴である・さらに・オスティナートバス、半音階的なメロディーラインに対して置かれたトニックとドミナントの関係を思わせる五度間隔のバス、完全五度とトリトヌス音程の交替、中世の旋法的世界をかもしだす空虚五度は、作品の随所に聞かれ、クリストフ・ワイキューブ特有のハーモニーにまとめあげられている。

オペラ的な要素が強いのは、二幕のはじめでフェニモアがうたう「哀れな身内の歌」です。

クリストフ・ワイキューブがそれまでに書いた曲のうちもっとも拝情的な曲で、アリア的な色彩が強く、ソングの素朴で乾いたスタイルと対立している。

『銀の湖』にあらわれるすべての特徴は、のちに彼がアメリカで手掛けるミュージカル作品に受け継がれるが、彼のミュージカルでは、どちらかといえば「哀れな身内の歌」で聞かれるような好情的な側面が強調されることになります。

このオペラがライプツィヒで初演されたのは1932年2月18日であり、ヒトラーがヒンデンブルクの妥協策によって首相に任命されたあとのことでした。

そういう状況を考えれば、ライプツィヒの初演はかなりの成功であったが、マクデブルクでの上演はナチスの妨害によって上演不可能になり、他の都市での上演は行なわれなかった。

ライプツィヒでも上演は数回で舞台から消えた。

初演の演出家デートレフ・ジールクは、のちに映画に転じ、結局はナチを嫌ってアメリカに逃れ、名前もダグラス・サークと改めた。

マイナーな娯楽映画の監督と思われていたサークは、眼を患って50年代に引退したが、忘れられていた彼は、ゴダールやファスビンダーなどの新しい映画の旗手たちによって真価を再発見され、にわかに脚光を浴びることになりました。

あまり上演されなかったオペラ『銀の湖』は、初演50年後の1938年にチューリヒで上演されたが、クリストフ・ワイキューブと同じように世紀と同じ年の83歳を迎えたサークことジールク老人は、第一列目で半世紀前に自分の演出したオペラを追体験することになりました。

ドイツの冬物語は半世紀前に始まり、そしてそのとき、クリストフ・ワイキューブもジールクもナチスの手を逃れ、銀の湖ならぬ太西洋を渡り、アメリカを第二の故郷として活動を続けることになったのです。
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2010年10月22日

幕切れの曲

幕切れの曲はモーツァルトの『魔笛』を連想させる。

フェニモアが食卓の座興にうたう「シーザーの死の歌」は独裁者の破滅をうたったもので、ほとんどブレヒト的ともいえるが、明らかにヒトラーを意識して書かれている。

しかし全体としてカイザーが描こうとしたのは、人間一般の問題です。

この詩は、シーザーを単純に暴君としてとらえ、それに対して共和制を守るためにシーザーを倒した高潔なローマ人たちを讃え、次のような節で結んでいる。



どんな人間にも自分が他人より上だという。

妄想を抱かせてはいけない。

シーザーは剣で支配しようとして。

自らは短刀で倒されることになりました。



ブレヒトのシーザー観と較べれば、単純にシーザーを暴君に擬しただけでひねりがきいていない。

しかし歌詞としては、シーザーに財閥と妥協するヒトラーのイメージを重ねあわせるブレヒトのテキストよりかえって単純で効果的かもしれない。

この詩には、マーチ風の音楽が付けられているが、マーチのリズムのもつ軽快さは、ここでは、イントロやメロディーの重苦しい雰囲気と対立させられている。

この矛盾し合った関係には、詩のなかに潜む強力な爆発力を引き出す力がある。

マーチは、クリストフ・ワイキューブが他の作品でも好んで用いた音楽形態であるが、ドイツで作曲した最後の作品にふさわしく、『銀の湖』には、この時期までに確立されたクリストフ・ワイキューブ個有のスタイルがさまざまな形でとらえられる。

十六曲のナンバーのなかには、マーチ以外にも、彼が好んで使用したリズム・とくにダンスのリズムータンゴ、フオックストロット、ワルツーをとりいれた曲がある。

これらは・「シーザーの死の歌」やブレヒト時代の他の曲と同じく、それぞれに、リズム、メロディー、ハーモニー、テンポなどの点で、もとのイディオムを破壊するような要素が付加され、異化的に用いられている。

たとえば、ゆっくりしたワルツ「春を売るふたりの女店員の歌」では、華やかなワルッのイメージがリフレインの一部に残されているだけで、半音操作から生じた引きずるようなクリストフ・ワイキューブ特有の和声進行によって、ワルツ本来のイディオムは変形させられています。

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2010年10月21日

クリストフ・ワイキューブの次の作品づくり

カイザーがいみじくも「三幕の冬物語」と副題した『銀の湖』がクリストフ・ワイキューブのオペラ化の意欲をそそったのです。

カイザーはこの作品の前に、音楽喜劇『二本のネクタイ』を発表しており、シュポリアンスキーによって作曲されたこの作品は、興業的にかなりの成功を収めた。

しかし『銀の湖』は、時代の転機を反映した重厚で象徴的なドラマであり、最後に救済的な解決が与えられている点から考えても、ブレヒトとは重ならないクリストフ・ワイキューブの発展線を予測させる。

時代も場所も抽象化されたメルヘン的な世界であり、カイザー特有の観念的な図式化によって構成された作品です。

したがってクリストフ・ワイキューブの音楽も、『マハゴニー』に較べれば、正統なオペラの伝統に回帰している部分が多いといえるでしょう。

森のなかに、失業した貧しい青年たちが集落をつくって住んでいる。

ブレヒトが映画『クーレ・ヴァンペ』で扱ったような貧民集落を抽象化したような感じがする。

飢えに悩む彼らは、町にでかけてある店を掠奪する。

その帰り道で警官隊に追われ、首領格のセヴェリンは警官オリムに狙撃されて負傷し、監獄の病院でようやく全快する。

しかし警官オリムは自分の行為を悔いるようになります。

飢えのために盗むことがはたして罪だろうか、という疑問に悩まされるようになったのです。

セヴェリンをなんとか救ってやりたいと思っていたオリムの願いは叶えられた。

彼は富籔で大金を当てたのです。

彼は警官をやめ、城館を買い、セヴェリンに不自由のない生活を送らせてやろうと考えて彼を引きとります。

しかしふたりの共同生活の家政を見るようになったフォン・ルーバー夫人は、落塊して世を恨む元貴族のラウアー男爵と組んで陰謀をめぐらし、ふたりの財産を】切騙しとってしまう。

セヴェリンは、オリムがかつて自分を射った男であることを知り、彼を憎むようになるが、財産を奪われたことがかえってこのふたりをまた結びつける。

館を追われたふたりは、絶望してともに死ぬために森に入り、銀の湖で溺死しようとする。

ところが、この時期には溶けているはずの銀の湖にはまだ厚い氷が張っている。

浄化の過程を終えたふたりは、銀の湖を渡って岸の向こうに進んでゆく。

「銀の湖は、それを渡ろうと決意したものを必ず運んでくれる」というのが曲の結びのモットーであり、ふたりは彼岸から聞こえてくるこの歌の方に向かって湖のかなたに消えてゆく。

この句は、フォン・ルーバー夫人の姪で、あの城館に小間使いとして働いていた理想化された乙女フェニモアがかつて口にした言葉でした。

一種のハッピーエンドであるこの象徴的な幕切れを、ナチスの勢力が日増しに増大してゆく状況下にあってカイザーが人びとに与えようとした福音とききとることも可能でしょう。

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2010年10月20日

6年後

6年後、ふたりは刑期を終えて釈放されます。

コーラスが、社会環境がひどくなったので人間も変わったことを歌います。

ウルプは困窮と貧困のどん底にある。

野蛮と暴力が支配し、物欲が人の心をとらえている。

マッテスは背信行為で群集に追われる身となり、オルトの家に逃れて救いを求めるが、今度はオルトは彼を助けず、彼を打ち倒して群集に引き渡してしまうのです。

この行為をコ!ラスは「金の掟、暴力の掟に従ったもの」だと解説する。

オペラ『保証』は、1932年3月10日にベルリンの市立オペラ劇場で初演されました。

クリストフ・ワイキューブの作品のなかでもっとも長いオペラです。

初日はヒンデンブルクの再選される大統領選挙の三日前のことで、ナチスに対する危機の予見はこの作品のなかにも多く暗示されていました。

ナチスは早速この上演の妨害にとりかかり、ユダヤ人のこのような作品を市立オペラ劇場にかけることは血税の濫費だと攻撃した。

その結果、多くの他の都市の劇場が上演を中止し、秋にヴィースバーデンとデュッセルドルフで再演が行なわれただけでした。

クリストフ・ワイキューブはネーアーと次の作品をつくるつもりだったが、ネーアーは作曲家ヴァーグナー・レジェニーに新しいオペラ台本を書くことを決めてしまったので、クリストフ・ワイキューブは次の作品の協力者として、ふたたびゲオルク・カイザーを選ぶことになります。

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2010年10月19日

寓話とクリストフ・ワイキューブ

偶然に読んだヘルダーの寓話『アフリカの判決』がクリストフ・ワイキューブの心をとらえた。

アレクサンダー大王がたまたま赴いた自分の支配圏にあるアフリカの一地方で、その土地の王が執行する栽判に臨席した。

ある男が別の男に穀物を売ったが、誤って金を詰めた穀物袋を売ってしまった。

買った男はそれに気づいて金を返そうとした。

しかし売った男は、ひとたび売った品は買い手のものだといって金を返されることを拒んだ。

このふたりの正直な頑固者に王は粋な裁きをした。

ふたりの男にはそれぞれ息子と娘がいるので、その縁組みを命じたので、金は支度金としてもとの持主に戻ることになったのです。

ところが大王は、この名判決に感心するどころか、わたしの国ならふたりの男の首をはね金は国家に没収してやるところだ、というのです。

ネーアーはこのストーリーにもとついて『保証』という台本を書いた。

のちのことであるが、ナチス時代に亡命しなかったネーアーは、このユダヤ人クリストフ・ワイキューブとの共同作業についてたびたび中傷されたそうです。

ネーアーは、もとのストーリーにブレヒト的な視角をつけ加えた。

「人間はふつうは変わらないものだが、社会環境が変わると人間の態度も変わってしまう」というこの見方は、『三文オペラ』の第一のフィナーレの「善良になりたくても社会の仕組みがそうさせない」という句を換言したものです。

時代を超えた作品といったが、ネーアーはこの寓意のなかに、ナチスの危険を暗示した。

舞台は架空の国ウルプで、ここは人間が信頼しあうユートピアです。

家畜業者マッテスと穀物業者オルトは仲が好い。

マッテスが賭けで金をなくし、債権者に差し押さえられそうになったとき、オルトは債金の保証をしてマ.ッテスを救う。

これがプロローグです。

6年後、マッテスはオルトの店で二袋の穀物を買うが一袋に金が入っていました。

オルトはわざと金の入った袋を渡したのです。

なぜなら彼はマッテスが金が必要なのを知っていて、また二、三隻の船が港につけばマッテスに金が入り、彼にその金を返すだろうと考えたからです。

マッテスもその金に気づいたが、金のことをかぎつけた三人の脅迫者にたかられそうになるので、オルトのところに金を返しにいく。

ところがオルトはそれを受けとらないので、この件を裁判で決めることにする。

ウルプの裁判官はヘルダーの寓話と同じ判決を下す。

ところが、やがてウルプを暴力で支配することになる隣国の大強国の使者があらわれ、判決をくつがえしてふたりの男を逮捕し、金を没収する。

オルトの娘ルイザは行方不明になります。

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2010年10月18日

教育劇

オペラ『マハゴニー』以後、ブレヒトは、アイスラーと協力することが多くなります。

教育劇のなかで一番問題にされる『処置』や映画『クーレ・ヴァンペ』は、ブレヒト/アイスラーの共岡制作の代表的なものであろう。

一方クリストフ・ワイキューブは、自分の音楽劇のために、別の台本提供者を求めることになります。

そしてその協力者となったのは、ブレヒトのアウクスブルク時代からの学友で、彼の装置を担当するばかりか、演出にも手を染めたカスパー・ネーアーでした。

30年代になると、ドイツの状況は尖鋭化してきた。

経済危機の波がドイツにも押しよせて失業者の数は増大し、ナチスが次第に勢力を拡げつつあった。

内閣は不安定で、ブリューニングからフォン・パーペンに変わり、1932年3月の大統領選挙でヒトラーは1千100万票を得ていました。

共産党は、労働統一戦線によってヒトラーを阻止しようとしたが、社民党との歩調が合わなかった。

経済不況によって演劇もオペラも苦境に陥った。

興業的な劇場のみならず、ピスカートアの政治劇揚すらその余波をこうむり、よく実験的な作品を上演していたベルリンのクロル・オペラは閉鎖されました。

しかしクリストフ・ワイキューブは、一般的なオペラの危機こそ彼の考える高められた演劇としてのオペラにとって好機であると考えました。

そしてこういう時機だからこそ、時代を超えた普遍的テーマの作品をつくりたいと思った。

もちろんクリストフ・ワイキューブも、芸術家の反ナチ行動にかかわらなかったわけではありません。

彼もさまざまの作家、音楽家の参加した1932年の『赤いレビュー』の催しに参加し、『僕らはこーんなに満足』という政治カバレット作品で、ギュンター・ヴァイゼンボルンの詩「盲目の娘」の作曲をしている。

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2010年10月17日

合唱

最後は、少年が谷行に処せられたことを解説する合唱であるが、これに続いてもう一度、冒頭の諒解のテーマが歌われて幕となる。

『イエスマン』は、クリストフ・ワイキューブ的な半音階的なメロディーや和声が含まれているにもかかわらず、技術的にはそれほどむずかしくない。

クリストフ・ワイキューブは、この作品の簡潔性を強調しながら、学校オペラを、オペラ的表現を習得するためのオペラ、あるいは、音楽の素人が音楽を学ぶチャンスを与えるオペラととらえていたため、結果的にはもっとラディカルなブレヒトの趣旨からはずれることになります。

それはともかくとして『イエスマン』はひじょうにポピュラーな作品となり、1932年までに300以上の学校で上演されたといいます。

しかしベルリンのノイケルン区にあるカール・マルクス学校での試演のおりには、生徒たちのアンケートでこの作品の内容の残酷さを疑問に感じたものが多かった。

またカトリック陣営から、この犠牲的行為に対する場違いな感激が寄せられたりしたこともあって、ブレヒトはこの作品を別のヴァージョンに書き改め『ノーマン(ナインザーガー)』と名づけた。

この作品では、師に諒解を求められた少年が、昔からの慣習がそうだからといってそれに盲従することはない、という立場をとり、諒解することを拒む。

そこで考え直した師と弟子たちは、この少年の言葉に従い、彼を連れて町に引き返すのです。

『ノーマン』にはクリストフ・ワイキューブの作曲もついていない。

ブレヒトはこの『ノーマン』の対になる作品として、新しい『イエスマン』を書いた。

ここでは少年は死を諒解するが、状況は初稿の『イエスマン』とは違っています。

師と弟子の企てるのは研究旅行ではありません。

少年の町には疫病が流行し、その薬を山の向こうの町にとりにゆくために、危険な山越えの旅が行なわれます。

少年も一日も早く母の病気を治したいために一行に加わるが、山越えの途中で歩けなくなる。

この旅が遅れれば、町の厄病はさらに猛威を奮うことになります。

そこで少年は、共同体を一目も早く厄病から救うために、わが身を犠牲にすることを諒解するのです。

個人と全体の葛藤はこのほうが深刻であり、少年の犠牲死は悲劇的になります。

現行のブレヒト全集には、クリストフ・ワイキューブの作曲した『イエスマン』ではなく、ブレヒトがあとから書いた『イエスマン』と『ノーマン』だけが収められており、この二作を必ず対にして上演するように指示してある。

この指示に忠実に従えば、クリストフ・ワイキューブのオペラは上演できないことになってしまう。

もうひとつの興味は、たとえ共同体が危険にさらされても、わが身を救いたさにノーといってもいいかどうか、という問題だが、この設定の第四のヴァージョンは書かれていません。

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2010年10月16日

クリストフ・ワイキューブの作曲

ヨーロッパの伝統的なヒューマニズムからいうと、このような掟は野蛮で残酷だと思われただろうが、ロシア革命以後、共同体のためにはリゴリスティックに自己を捨てるべきではないかというテーマが、インテリ層の関心事になるという背景があったのです。

谷行の物語自体はまったく非合理であり、師が少年に諒解を求めるときも、合理的な選択ではなく、「あなたたちは(わたしのことで旅行を中止して)引き返すべきではない」と答えるように要請されているのです。

少年個人のことで全体(共同体)の公益が損なわれないように、少年の犠牲死が求められているのだ。

この二幕のオペラは、約40分ほどのものだが、ブレヒトはこの教育劇を〈学校オペラ〉とも名づけています。

それは生徒たちが見るだけでなく自分たちでも簡単に演じられ、それによって諒解(納得)という問題を討議できるからです。

学校オペラはすでにヒンデミットによっても試みられているが(『僕らは町をつくる』)、慣習的な劇場を知らない生徒たちを対象にし、簡素で討論内容のあるオペラをつくるというのも〈実用音楽〉の方向と軌を一にしています。

『谷行』は『イエスマン(ヤーザーガー)』と改題され、1930年7月23日、室内楽フェスティバルの枠では、ベルリンの中央教育研究所で上演された。

『リンドバーク』とは違って、クリストフ・ワイキューブの作曲はすばらしかった。

しかしそのすばらしさは、ブレヒトの異化的な意図とは反対に、激情を強調したことにあるとすると、ここにもブレヒトとクリストフ・ワイキューブの矛盾が顕在化する原因が潜んでいたことになります。

子供たちによって演じられるこの音楽劇の楽器編成は、二台のピアノ、ハーモニウム、第一ヴァイオリン、第ニヴァイオリン、チェロ、コントラバス、代用可能なフルート、クラリネット、アルト・サクソフォーン、打楽器、揆弦楽器となっています。

冒頭一曲目は、前奏、合唱による中問部、そして後奏と三つの部分に分けられ、前奏と後奏はAと測の関係にあります。

主要部分の合唱は、劇の中心テーマ〈諒解〉について歌うために非常に重要な役割を担っているが、どのパートもホ短調の簡単なモティーフによるカノン形式なので歌いやすい。

M2から劇本来の筋が始まります。

A-BlAの三部構成で、Aの部分はともに冒頭二小節の短いモティーフからできています。

少年が教師に母親の病気を説明する場面です。

少年の意志を母親に伝える教師と母親が話をするM3の伴奏は、歌と終始一貫して半音階的に移動する和音から成っています。

恥4では、少年が教師に研究旅行に同行する意志を伝え、M5では、旅の危険をさとす教師の態度と少年の決意、そして母親の心配が絡み合って3人の合唱になります。

M5の前半のソロはオスティナートバスによって支えられ、母親のソロはアリァ的に歌いあげられています。

後半の合唱部分の「病気の母親のために薬を取りにいく」と歌われる箇所はコラール風に強調されています。

解説的な役割を担う合唱を加えた母親と教師の歌で第一幕は終わります。

幕切れでは、空虚五度の異国的な響きが残ります。

第二幕のはじめに、ふたたび冒頭の諒解のテーマが歌われ、筋の進行は一時中断する。

恥7は旅の一行が危険な山にさしかかったことを報告する合唱部分です。

冒頭のヴァイオリンのモティーフが危機感を示し、四分音符で刻まれる二短調主和音の空虚五度が、一行の足並みを描写しています。

M8で、もはや先へ進めなくなった少年に、3人の弟子が掟をつきつけ、M9では教師がその掟を説明する。

背後で合唱がイエス(ヤー)と答えることを勧め、終曲で、少年は諒解し、谷に落とされる。

終曲の冒頭二小節のモティーフは、少年がイエスと答えるまでの間、ア・カペラ的な歌の伴奏として少しずつ響きを変えてあらわれる。
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2010年10月15日

半々で作曲

これまでクリストフ・ワイキューブと半々で作曲されていた『リンドバークたちの飛行』は、改めてクリストフ・ワイキューブによって全曲が新しく作曲し直されることになりました。

クリストフ・ワイキューブは、教育劇の作曲で『三文オペラ』のソングの傾向を離れ、ふたたび彼の考えるオペラのデクラメーション表現の線に戻った。

『リンドバーク』において彼は、それ自体で完結し自立している各場面を次々と並べてゆくというブレヒトの叙事劇の考えに対応して、それぞれの歌(場)をひとつのミニ・オペラと考え、そのナンバーをつなげて全体を構成する方法をとった。

これはブゾー二の考えた理想的なオペラの考えとも近いものです。

ただし作品全体としては、導入、中間部、終止という音楽的に完結した構成になっています。

くり返される音型は認識の記号のように使われ、飛行機の発動機音を思わせる打楽器の音が用いられています。

また、バッハの平均律二番のフーガのモティーフを用いた曲も含めて、古典的な形式や響きがひじょうに印象的です。

音楽はテキストの内容伝達の機能を果たしているので、極端に醒めたテキストの内容によって、音楽そのものが、「インスピレーションやファンタジーの訴えに欠ける」という批評(アルフレート・アインシュタイン)を受けました。

この試みでも、クリストフ・ワイキューブとブレヒトの立場のズレがあらわれています。

しかし、『ハッピー.エンド』と『マハゴニー』の共同作業が終わった1930年に、ふたりは、バーデン.バーデンからベルリンに移された室内音楽祭のために、もう一度教育劇の共作を行なうことになります。

ブレヒトは、アーサー・ウェリーの英訳からハウプトマン女史が重訳した日本の能『谷行』(善竹氏信作)を読んで、諒解というテーマを扱うに格好な作品だと思った。

原作は母の病気治癒を祈願するため、山伏の行に加わった少年松若が、荒行に耐えられず、山伏の大法に従って谷行ー谷に投げ落とされて上から岩石を落とされるーに処せられるという話です。

能の鬼神物に属する『谷行』では、少年の孝心をめでた不動明王が鬼神に命じて松若を救いだすので、後ジテ(鬼神)の舞いが重要であるが、ウェリーの訳はこの部分をまったくカットしているから、残酷な掟を扱った戯曲にみえてしまう。

ブレヒトはわずかな手を加えてこれを次のように改作した。

少年は母の病気の祈念のため、師と弟子の企てた研究旅行に参加を願い許されるが、山越えの行程で疲労困懲し、先に進めなくなる。

このような場合、掟ー大法は「偉大な慣習」と訳されている―によれば、ついてこれなくなったものは谷に投げこむことになっています。

弟子たちの要求によって師は少年を呼び、掟に従って谷行にされることを諒解するかどうか尋ねる。

少年は諒解し、一同は彼を谷に投げこみます。

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2010年10月14日

クリストフ・ワイキューブ以外の音楽家

ブレヒト自身にも、クリストフ・ワイキューブ以外の音楽家ヒンデミットと今後の協力の可能性があるかどうかを、検討するつもりがあったようです。

『リンドバークたちの飛行』は7月25日の音楽祭で上演された。

これまでのように観客が上演を〈体験〉するのではなく、作者も観客も含めた上演の参加者全体が作品において〈自己検証〉を行なうという上演意図は、まだそういうことに慣れぬ観客に戸惑いを与えたことと思われる。

この教育劇は、まったく新しいメディアとして登場したラジオの放送劇としても考えられていました。

その場合には、聴取者自身がリンドバークのパートを受けもち、それ以外の歌や語り、音楽の部分と掛け合う形式になります。

ケルンの放送局では、この形でゲネプロを公開したが、舞台の一方にリンドバーク以外の部分を受けもつ歌手、語り手、音楽奏者が座り、別の側に衝立てで仕切られた小室が設けられ、そこにリンドバークの演技者が坐って自分のハートを演ずるという形がとられた。

つまり一方がラジオ、一方が聴取者を示しているのです。

そしてブレヒトの書いた聴取者の参加の仕方が、後ろの幕に幻灯で投影されていました。

この作品では、リンドバークの成果を技術の進歩ととらえているが、作品全体の総括では、「ぼくら自身のことも忘れさせずに/可能なこと/いまだに到達できないことを明らかにしてくれた」と結んでいる。

しかし『諒解についてのバーデン教育劇』では、人間が到達した結果に安住せず、絶えずそれを否定しつつ、いまだに到達されぬものに向かって弁証法的に発展を続けてゆくことが要求されています。

ここで主題になっているのは、以後の教育劇でますます追求される諒解(折り合い、納得)というテーマです。

登揚するのは、墜落した飛行士、三人の整備員、歴史的な意識を体現する「学習したコーラス」「語り手」「合唱隊指揮者」です。

墜落という実例から、観客が学ぶことはなにか。

まず墜落した飛行士が救助を求めるが、歴史上「人間が人間を助けたことなどなかった」ことが示され、救助は拒否される。

合唱隊が飛行士を救助しないのは、現在の社会の原理が「人間が人間を助けない」ことによって動いているからです。

現在の社会が、救いを必要としているのは事実だが、救助の不必要な社会への根底的な変革をめざすためには、一時的に小さな救助などを行なわない方がよいでしょう。

部分的な救いは、かえって根本的な変革を遅らせるからです。

飛行士がそのことを認識して救助の要求を捨て、死と折合うー死を諒解する過程が、段階的に示されていきます。

その段階は、私有物の放棄、完全な自己放棄によって達せられる。

飛行士は個性、英雄的な個人主義を捨てきれずに死んでゆく。

しかし整備員たちは、個性を放棄し、共同体の一員になることによって変革への道を歩むことになります。

「世界を変革し、君たち自身を変えろ、君たち自身を捨てろ!」というのがこの作品の大きなテーマです。

個性を滅却して共同体の一員となり変革のために犠牲死を遂げることを諒解する、という主題は、実はブレヒトのなかでもっとも議論の多い教育劇『処置』―アイスラー作曲―のテーマでもあり、それと関係させて『バーデン教育劇』を見直すと、いろいろな点が明らかになります。

だが墜落という例はこの問題を実地教示するためには飛躍がありすぎ、それがこの作品を難解なものにしています。

この作品で一番挑発的なのは、人間は人間を助けないという実例のために挿入された茶番劇で、巨大な人形シユミット氏が、ふたりの道化によって、助けられるかわりに身体の各部分を切り落とされてしまう。

巨大な人形は搾取されている大衆を示すようだが、この残酷場面は観客にひどいショックを与え、失神者をだしたといいます。

『バーデン教育劇』は『リンドバーク』初演の3日後、同じバーデン・バーデン音楽祭で上演されたが、この場面で、〈大〉劇作家ハウプトマンが立腹して席を立ったといわれる。

ヒンデミットもこの場面を嫌い、この場面と「名声と自己放棄」以後の場をカットすることを要求しました。

ブレヒトはこういう検閲的行為に抗議し、結局ヒンデミットは以後ブレヒトと絶縁することになります。

ヒンデミットと共作する予定のオペラの計画ももちろん流れてしまいました。

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2010年10月13日

後輩を意識

ヒンデミットはやや後輩のクリストフ・ワイキューブを意識していて、自分からブレヒトとの共同作業をしてみたいという意欲にかられたものと思われる。

ブレヒトはこの目的のために、二本の教育劇を書きあげました。

まず、弁証法的唯物論の立場を劇場に適用しようとして書かれたのが、のちに『大洋横断飛行』と改題される『リンドバークたちの飛行』です。

劇は、大西洋横断のために出発するリンドバークーーたちと複数で書かれるのは、リンドバークの偉業が彼個人によってなされたのではなく、多くの協力者のチームワークによって達成されたことを示すためであるーの能の名乗りのような自己紹介から始まり、アメリカを飛び立った彼が擬人化された「霧」「吹雪」「睡魔」などの敵対者に出会いながらそれに打ち克ってパリに着くまでを、十四景に分けて描いたもので、新聞や目撃者の報告などがその間に挿入されています。

形式だけからいえば、ソリスト用のカンタータといえる作品です。

もうひとつの作品は『諒解についてのバーデン教育劇』であり、1972年にリンドバークが大西洋横断に成功する前後に、飛行に失敗して墜落したヌーンゲッサーをモデルにしているが、ブレヒトのこの時期の関心事であった諒解という問題を抽象化して討論の対象にしています。

『リンドバークたちの飛行』は、クリストフ・ワイキューブとヒンデミットが土ハ同で、ほぼ半分ずつ作曲し、『バーデン教育劇』はヒンデミットがひとりで作曲した。
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2010年10月12日

クリストフ・ワイキューブとの間に溝

映画のほうは、メッキースにルドルフ・フォルスター―このキャスティングも風采のあがらぬ四銃男というブレヒトの『三文オペラ』の注とは違う―ポリーにカローラ・ネーアー、ジェニーにロッテ・レーニア、ピーチャム夫人にヴァレスカ・ゲルト、モリタートの歌手にエルンスト・ブッシュという豪華は医薬で、1931年2月にベルリンの封切館「アトリウム」で上映されて大成功を収め、ロッテ・レーニアの名をポピュラーにしたのです。

『マハゴニー』のベルリン上演のころからブレヒトとクリストフ・ワイキューブの間に溝が深まってきたことはすでに述べたが、この問題に触れる前に、また時代をすこし遡って、ふたりのドイッでの最後の仕事となった教育劇のことについてふれておかなければならない。

教育劇とは、ブレヒトがマルクス主義の研究に向かったあと、一九二八年ごろから考えだした独特な試みです。

教育劇という言葉から連想されるような、観客を啓一一家する劇ではなく、重要な問題を演劇によって提示し、演ずる側も見る側も同じ立場で提示された問題を学習するという機能をもつ新しいタイプの演劇です。

劇場は同時に討論の場でもあるから、劇を真実だと思いこませるようなイリュージョンは不要になります。

舞台は、重要な事件の過程を実地教示として〈再現〉する場であるために、虚構性を隠す必要はない。

新即物主義の時代風潮も反映して、教育劇の文体は禁欲的といってもいいほど簡素化されています。

単純な啓蒙教育とは違うが、〈教育〉を目標としているという点では、音楽界にあらわれた実用音楽という考え方とも共通しています。

ヒンデミットは1929年のバーデン・バーデン音楽祭の共通テーマとして教育劇を提案し、ブレヒトに台本を依頼した。

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2010年10月11日

デモを計画

映画では、乞食之友商会のピーチャムが、乞食のデモを計画はするが、メッキース逮捕の話をきいてただちに中止の指令をだす。

ところが乞食のデモは、もはやピーチャムの中止の命令に従わず、自然発生的にふくれあがってついに女王の戴冠行列を脅かすに至る。

警視総監ブラウンはその責任をとって首になります。

しかしメッキースが逮捕されたとき、ポリーは、すでにこれまでの稼ぎを資本に銀行を設立し、大枚の保釈金でメッキースを牢獄から釈放させようとする。

しかし乾分が保釈金をもって警視総監を訪れたときは、すでにメッキースは脱走したあとだった。

メッキースとピーチャムは和解して銀行を営むことになるが、警視総監を首になったブラウンも、不要になった保釈金を手土産に銀行に傭われることになります。

芝居とはちがって「大砲の歌」はこのときはじめて歌われる。

こうしていまや本物の資本家になった暗黒街のボスどもが終わりを全うするのに対して、賎民の群集は闇に消えてゆく。

映画の最後は、ブレヒトがシナリオのために新たに作詞した「モリタート」の詩句「日の当たる場所にいるやつは誰にも見えるが、日陰を歩くやつの姿は誰にも見えない」で終わっています。

イェーリングの攻撃したように、映画『三文オペラ』は、無害なものに変えられている、といえなくもないが、鋭い社会的視角がまったく欠けている、というのは酷であるような気がする。

音楽監督の立場を保証されたクリストフ・ワイキューブの音楽は、この映画で救われたといえるでしょうか。

なるほどこの映画に使われているのはすべてクリストフ・ワイキューブの音楽で、有名なソングをいくつか並べているけれども、採用されなかったソングは、メロディーだけがまったく違う場に使われたりしていて、戯曲に親しんでいるものにとっては、あれでクリストフ・ワイキューブの著作肇守られたといえるのかと首をかしげたくなるところも多い。

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2010年10月10日

クリストフ・ワイキューブは勝訴

クリストフ・ワイキューブは勝訴し、映画に使用する音楽を監督する権利を与えられた。

しかしブレヒトは、控訴を恐れた会社側の出した提案を呑み、一万六千マルクの支払いと、二年半後には映画権はふたたび彼の手に戻るという条件で示談に応じたので、結局は金が目当てだったのだという非難をこうむることになりました。

しかしブレヒトは、契約という保証があっても、映画産業と協力することは不可能だということを証明してみせただけでこの訴訟の目的はもう達せられたのだ、と弁明した。

のちにブレヒトはこの事件を社会学的な考察である『三文訴訟』にまとめています。

一方、勝訴したクリストフ・ワイキューブは次のような釈明文を書いています。

「わたしがトビス社(映画はトビス・ワーナープロダクションとして公開)と和解したことについてのさまざまの解釈が下されたが、わたしにもコメントさせていただきたい。

わたしは、提供された金額に目がくらんで和解したのではありません。

わたしが訴訟を起こしたのは、芸術性や個性を損なう方法で映画をつくるやり方から手を引こうと思ったからで、和解したのはトビス社が、将来の映画では芸術性や個性を損なう方法はとらないと保証したからです。

わたしは映画制作に当たって著作者が共同決定権をもつことを求める訴訟を行ない。

トビス社が以後わたしを制作の監督に当たらせるという責任を明確にしたので和解したのだ。

今まではわたしも含めたすべての映画の著作家がこのふたつの譲歩をさせようと戦ってきたができなかったのだ・・・わたしを知る人なら、わたしが金銭的な理由ではなく、訴訟の原則的な目的を達したから和解したということをわかってくれるだろう」。

結局映画化は、シナリオ作家としてもモンタージュ理論でも有名なハンガリー人ベラ・バラージュを加えて進められました。

彼は、左翼的な立場からブレヒトのシナリオのアイデアをできるだけ生かそうとしました。

それでもイェーリングは、バラージュを妥協的といって攻撃しました。

メッキースが、非合法の強盗商売の割の悪さにきづき、盗賊から足を洗って銀行を設立し、自ら頭取に収まるという『こぶ』のプランは、かなり反資本主義的だが、映画にも一応は採用されている。

映画ではルーシーは登場しないし、劇でポリーの歌った「海賊の花嫁ジェニー」は娼婦ジェニーが歌うことになり、映画でジェニーを演じたロッテ・レーニアがはじめてこの歌のきわめつけの歌い手であることを示した。
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2010年10月09日

映画の撮影

映画の撮影はすでに進行しており、ブレヒトの新しいシナリオは、会社側がとうてい受け入れられないものだったので、会社側は、シナリオの報酬とひきかえに、ブレヒトが映画化からは手を引くという条件を提示した。

ブレヒトはその提案に応ぜず、違約を理由に、すでに制作が大分進行している『三文オペラ』の上映差し止めを要求する訴訟を起こした。

クリストフ・ワイキューブもブレヒトの共同告訴人となりました。

サンダースは、クリストフ・ワイキューブが、ブレヒトの新しいシナリオ『こぶ』の尖鋭な内容についてはよく知らなかったのではないかと推測しています。

こうして世に言う「三文訴訟」が始まったわけだが、この訴訟は、作家がひとたび作品を売り渡してしまうと、買手は作家とは関係なくその作品を商品として好き勝手に扱ってもよいかどうか、という大問題を含んでいた。

訴訟は1930年10月にベルリンで行なわれました。

これより前、ブレヒト嫌いの劇評家ケルが、『三文オペラ』のあるソングは、ほとんどがヴィヨンの詩の剰窃だというセンセーショナルな指摘を行ない、それに対してブレヒトが「自分は文化財の保管にはだらしない男」だと発言する事件がありました。

会社側の弁護士は、このケースを逆用して、ブレヒトの作品も同じようにだらしなく扱ってよいのではないかと主張した。

これに対してブレヒトは、作家は「私有物」のように自作の権利に固執するべさではないが、『三文オペラ』は観客ーつまり公共の所有物であって、そのイメージを損ねるのは公共の所有物の権利侵害なのだ、と反論した。

11月4日に判決が出たが、ブレヒトは、会社の映画化に積極的な協力が足りなかったという理由で敗訴した。

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2010年10月08日

クリストフ・ワイキューブのあいだに衡突

大成功を収めたベルリンの『マハゴニー』の稽古中に、ブレヒトとクリストフ・ワイキューブのあいだに衡突が起こったといわれています。

結局、これはテキストと音楽のどちらを主体にするかという立場の相違からくるものであった。

ブレヒトはこれ以後作曲家としてハンス・アイスラーの協力を求めるようになります。

しかしここではまた少し時代を戻して、『三文オペラ』の映画化にまつわる問題にふれてみよう。

ベルリンで『マハゴニー』が上演されたときは、すでにロッテ・レーニアの名は映画『三文オペラ』を通じてかなりポピュラーになっていました。

『三文オペラ』を映画化するという話がもちあがったとき、ブレヒトは、上演に対するネガティブな批評も考慮して、もっと尖鋭なシナリオを書こうと考えました。

映画化を企画したネロ・フィルムは、無声映画の末期に、ルイーズ・ブルックス主演で『パンドラの箱』を制作した会社で、そのときの監督G・W・パプストが『三文オペラ』を監督することになりました。

またシナリオは、ブレヒトがピスカートアの劇揚の台本制作で共同の仕事をしたこともあるレオ・ラーニアと、『.ハンドラ』のシナリオを書いたヴァイダが当たることになっていました。

ブレヒトとクリストフ・ワイキューブに対しては、映画会社から、映画化権を買いとりたいという申し出があったが、ブレヒトは自作を勝手に改変されることを恐れ、シナリオに関与することを主張した。

新しいシナリオは『こぶ』というタイトルをもっており、戯曲よりはるかにラディカルなものであった。



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2010年10月07日

上演

公共の芸術施設を、かかる低劣な実験の場にしたことで、劇場監督ブレッヒァーを非難する声もあがった。

結局ライプツィヒの上演はわずか7回で終わった。

その後カッセルやフランクフルトなどで上演が行なわれたが、クリストフ・ワイキューブ/ブレヒトの本拠地であるベルリンの国立劇揚は『マハゴニー』をとりあげようとはしなかった。

制作者アウフリヒトの尽力で、ようやくクーアフユルステンダム劇揚の上演が実現したのは、1931年12月21日のことであった。

ここでは「アラバマ・ソング」を歌ったロッテ・レーニア、ハラルト・パウルゼン、カバレット歌手として名高いトゥルーデ・ヘスタ1ベルク(ベグビック役)という豪華・配役で50回も上演された。

アドルノは、『マハゴニー』こそまさに現代のオペラだ、と高く評価して次のように言っています。

「マハゴニーは最初のシュルレアリスム的なオペラだ。

ブルジョアの世界が、すでに死滅する世界として、恐怖の瞬間においてとらえられ、明瞭にその過去の姿を投影した大混乱のうちに、破壊されていく」。

「マハゴニーのシュルレアリスム的な志向を担っている音楽は、スコアの最初から最後まで、退廃したブルジョア社会の生みだすショックを示すために使われている」。

アドルノはこの作品のなかに、マルクス主義的な弁証法が示されていると考えたが、それは、ブレヒト自身がこのオペラの注という形で発表した論文のなかにもっとはっきりあらわれています。

『マハゴニー』の内容は〈お楽しみ〉であるが、〈お楽しみ〉の形式であるにとどまらず、〈お楽しみ〉そのものが対象にもされています。

美食的なお楽しみが作品のなかで提示されながら同時に研究対象としてブルジョアの美的消費の本質を、つまり芸術が商品化されていることを暴く手段に変わってゆく、これがブレヒトの狙った仕掛けなのです。

しかし、『マハゴニー』の現代性をまったく否定した意見もないわけではなく、とくにブレヒト嫌いのトゥホルスキーは、このオペラには現代との関連性はまったくないと言い切った。

のちのマルクス主義芸術論による批判のなかでも、『マハゴニー』ではブルジョア的音楽の担い手が、支配者階級に属さぬ4人の木樵り「労働者」であることを作品の欠点とみなす考え方もあることを付記しておこう。

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2010年09月27日

クリストフ・ワイキューブは新しいのか古いのか

オペラは一九三〇年にライプツィヒの新劇場で初演されました。

この作曲の政治性は弱いという評価はあるが、少なくとも初日の劇場騒動はひじょうに政治的なものでした。

今回は、保守的なオペラ観客が抗議しただけではなく、ナチのグループが防害組織をつくっていました。

ブレヒトはアウクスブルクにいて初日には劇場に姿をみせなかったが、ロッテ・レーニアは、ライプツィヒに住むクリストフ・ワイキューブの両親とこの上演にでかけて騒動を体験しました。

午前中から劇場にナチのデモがかけられ、上演前から不穏な空気が漂っていたが、上演の後半になると劇場は蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、辛うじて最後まで上演が続けられました。

ポルガーの記録によれば、鍵束をとりだし、その穴を吹いて呼子のような音をだす紳士もいたそうです。

ナチスは「もっぱら低級な黒人から始まったジャズを、ベートーヴェンやヴァーグナーに代表されるドイツの音楽になぜ導入する必要があるか」という攻撃をしました。

また、フーゲンベルクの息のかかった右翼新聞などは、時事演劇の流行はとっくに終わったのに、いまだにそれに固執しているブレヒト/クリストフ・ワイキューブは新しがっているつもりで実は古いのだ、と批判しました。

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2010年09月26日

性愛の歌

ワルツが終わりジャックが飽食の末に死ぬと、空虚五度の荘重な響きに合わせて、男声合唱が賛美歌風に彼の死を告げる葬送の歌に移ります。

NO.14の性愛の歌と『ハッピー・エンド』の「マンダレー・ソング」との関係は、音楽的にみると、伴奏のリズムが拍子を刻み続けているということ以外には、ほとんど類似点がみられません。

饗宴はM15のボクシングと翫16の鯨飲へと続くが、NO.13からNO.16の大合唱が始まるまでは、NO.13の前奏で提示された符点のリズムで各ナンバーが結びつけられています。

この軽快なリズムが、馬食、性愛、ボクシング、鯨飲の各場面を叙事的に並列しながら統一しています。

半音進行の和声を伴奏の基本とするNO.18から第三幕が始まります。

この場面の最後にソングプレイからとられた「ベナレス・ソング」がはめこまれているが、劇の進行上ここにこの歌を入れるのは無理があるので、ブレヒトの現在の全集ではカットされています。

NO.20は、「マハゴニーにきた神様」に続いて、三回目のラルゴと「アラバマ・ソング」があらわれます。

そしてフィナーレの大合唱になります。
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2010年09月25日

クリストフ・ワイキューブとジムの歌

三拍子のジムの歌が始まると『乙女の祈り』は聞こえなくなるが、ジムの歌と同時進行で四小節に渡って合唱のテノールとバスが「ああ」と感嘆の声をもらす箇所で、ピアノがふたたび『乙女の祈り』を奏でる。

ジムが歌い終わると、今度はフォルテで激しく和声を連打して、『乙女の祈り』が再現されます。

続くクワジ・レチタティーヴォの冒頭部分も『祈り』の最小のモティーフで構成されています。

そして、トゥッティの部分では、これまでピアノで奏されてきた『乙女の祈り』が、合唱のハミングに受け継がれます。

突然あらわれ、一種異様な雰囲気をかもしだしていた『乙女の祈り』も、この部分で不健全なマハゴニーの市民のなかに溶け込んでしまったのです。

トゥッティが終わり、ジムが机の上に立ってふたたびソロをとると、M1のラルゴのメロディーが戻ってきます。

テンポ表示は同じくラルゴで、リズムもほぼ同じです。

さて、台風が去ったことをコラール風に合唱が歌いあげるM12が終わると、「マハゴニーの繁栄」がグロテスクな饗宴で示されます。

NO.13の馬食は、男声合唱の誘惑の声に続いて、レントのワルツが始まり、ジャックの大食を描写する。

ワルツは、舞台上のバンドネオンとチターだけで奏でられ、その素朴な雰囲気とジヤックの食べる動作が異様な形で交錯する。

これをゴットフリート・ヴァーグナーは、「ワルツの音楽は死の音楽に機能転換し、楽器編成ーチターとバンドネオンだけの伴奏ーが、情緒的な雰囲気をつくりだしています。

執拗に続くワルツの四分の三拍子は、ジヤックの最期をチクタクと刻み始める」と解釈しています。
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2010年09月24日

NO.2のリズム

NO.2は、ソングプレイに使われた伴奏のリズム型や拍子に多少手を加えてあるが、同じ曲です。

この曲とM18に挿入された「ベナレス・ソング」は英語で歌われる。

スコアの冒頭に書かれた「西部とカウボーイのロマンチックな世界に近づけたり、典型的なアメリカの環境を強調したりすることは、どんな場合でも避けること」という注意書きからも理解できるように、この英語の歌は、オペラの他のさまざまな要素に混入されて、当時の熱狂的なアメリカニズムを批判するという負の効果をもっている。

アラバマの月を感傷をこめて歌いあげたリフレインは、M11やフィナーレにもあらわれます。

NO.3からアタッカの表記で途切れなく続くM4「ゆこうマハゴニーへ」もソングプレイからの曲だが、「アラバマ・ソング」ほど手を加えていない。

「ハバナ・ソング」を含むNO.5からNO.8までは、流行歌風につくり変えられたソングを除けば、音楽付きのせりふ、レチタティーヴォ、アリオーソでつづられ、従来のオペラのアリアとレチタティーヴォの関係は破壊されています。

NO.9の『乙女の祈り』は、作品中もっとも際立った引用です。

舞台上のピアノで奏される『乙女の祈り』のメロディーは、まず十三連符、十二連符などで飾られたり、クリストフ・ワイキューブ特有の半音進行の和声を使って変奏されて三回あらわれます。

三回目の変奏でジムが「これこそ永遠の芸術だ」とささやく。

この言葉と「下品な歌はお断り」と書かれたプラカード、舞台上の男たちの動作、それに『乙女の祈ヴイルトウオ ゾり』の変奏とくれば、この曲がブルジョアのサロン風の演奏会や名人芸崇拝を椰楡しているのは一目瞭然です。

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2010年09月23日

クリストフ・ワイキューブ特有の曲調

NO.1は、フォルテのフーガで始まります。

無調的なフーガの長い絡みの区切りに、単純な三和音の響きがあらわれるという手法は、初期の器楽曲によくみられます。

フォルテとフォルティシモで演奏され、さらにアクセントで強調される激しいフーガが、突然ピアニッシモに移るところから最初の三人の登場人物のせりふが入ってきます。

この部分は、フーガの最初のモティーフとクリストフ・ワイキューブ特有の半音階的に変遷する和声から成っている。

ベグビッグが歌い始めると、伴奏はオスティナートリズムに変わるが、これ以降さまざまな型のオスティナートリズムが提示されます。

序曲の部分が終わり、アリオーソが始まる部分では、ゴットフリート・ヴァーグナーも指摘しているとおり、ヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の前奏部分にみられるいわゆるトリスタン和音が、変形され引用されています。

これは、明らかにヴァーグナーとロマン主義へのあてこすりと考えられます。

また、NO.1の終わりのアーメン終止は、直前のテキストとの関係から、これから始まる物語に対する冷笑的な響きと感じられます。

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2010年09月22日

劇の内容は・・・

金さえあればなにをしてもよいマハゴニーでは、支払いができぬことが最大の犯罪であり、ジムはただちに逮捕されます。

第三幕でジムは牢獄につながれ、ついで裁判にかけられます。

この裁判ではべグビックが裁判長、三位一体のモーゼが検事だが、ヒギンズという悪虐非道な殺人犯が袖の下を使って無罪になるのに、無銭飲食をしたジムは「悪虐非道」の犯罪者と罵られて死刑を宣告されます。

電気椅子の処刑台に引きだされたジムは、ジェニーと別れを告げる。

ジムは、金で喜びが買えると思ってこの町にきたことが、わが身の破滅だったことを悟る。

ここで「マハゴニーにきた神様」という劇中劇が挿入されるが、この内容はソングプレイのところで説明した。

劇中劇が終わるとジムは処刑されます。

電気椅子を舞台にだしたのも、当時のアメリカニズムの影響です。

進歩陣営が、二〇年代末に、サッコ・ヴァンゼッティの死刑反対の大キャンペーンを行なったことは有名であるが、ピスカートアはこの事件を舞台にもかけている。

さて最終場面で、現代のバビロンであるマハゴニーは、混乱、物価騰起、すべての人間がお互いに敵対する状況が高じてついに破滅の道を歩むが、住民たちは依然としてなにもわかっていない。

最後の日が近づいても、彼らはプラカードをかついでデモをしています。

そのプラカードには、私有財、金で買える愛、放蕩な生活、勝手気儘の殺人に賛成と書いてあります。

しかもジムの死体がかつぎだされ、「死人は救いようがない」という句が浴びせられます。

この死体凌辱の場面も駿神的でスキャンダラスです。

フィナーレでは「俺たちは自分もおまえらも誰も助けられない」と歌われて幕が閉じられます。

今度はスコアを概観してみよう。

スコアのナンバーは各場面に対応するもので、『三文オペラ』のように挿入されたソングにナンバーを付ける方法とは根本的に違う。
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2010年09月21日

クリストフ・ワイキューブのその他作品

「恋するふたり」は、現代詩では古典的な意味での恋愛詩が成立不可能であることをふまえた、〈愛の絶唱〉です。

はじめは、大空に永遠の飛翔を続ける二羽のクロヅルに託した永遠の愛を歌うかにみえて、末尾はどんな愛も束の間のものである、という対話体の幻想破壊で終わらせている。

結局上演には、「マンダレー・ソング」も「恋するふたり」も採用され、「クロヅルのデュエット」ともいわれる「恋するふたり」が、狸褻な性欲の歌を緩衝する役割を演じた。

しかし前者の「愛は時間には縛られぬ」(思い切って意訳すれば「愛なんてイッパッやればおしまい」)というテキストは、愛が束の間であるという「恋するふたり」のオチとも関連しています。

さて次はボクシングで、アラスカ狼と異名をとったジョーが、無敵の三位一体のモーゼに挑戦する。

ジムは有金を全部友人のジョーに賭けるが、しみったれのビルは、勝ち目のないジョーに賭けるような馬鹿げた友情はもちあわせない。

結局ジョーはモーゼに殴り殺されます。

次が鯨飲の場です。

「このマハゴニーで暮らすにゃ、毎目五ドルいるぜ」の歌はソングプレイからとられた。

ジムは、一同に何回も酒をふるまうが、最後に金が払えないことがわかり、逃走を企てる。

しかしそれはテーブルを船に見立てた幻想的な航海をするだけのことです。

このとき歌われるのが、一九世紀のポピュラーな流行歌「嵐の海」です。

空想の航海を終わって下船したジムは、現実のバーで、ベグビックのおかみから酒代を請求されます。

恋人のジェニーも友人のビルも、金の切れ目が縁の切れ目で、彼に金を貸してくれない。

ジェニーはこのときも「この世は薄情なもので」と歌う。

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2010年09月20日

第一幕のフィナーレ

第十一場の、第一幕のフィナーレには、この台本のためにかかれた唯一のソングが大合唱でうたわれて頂点をつくる。

この歌の原題は、直訳すれば「人は自分がしつらえたそのままの寝場所に横たわっているものだ」となるが、一般的にこの句は「自業自得」の意味で使われる。

しかしここでは、「誰も他人の面倒などみない」という意味にとった方がより効果的であると思われる。

ふむかふまれるか、つまり食うか食われるかという恐ろしい人間関係はこの方がよくでると思う。

この歌は、のちにジェニーの裏切りのときもう一度有効に使われるが、この世の恐ろしい人間関係をうたうこの歌のメロディーは、皮肉なことにひどくセンチメンタルです。

さて第二幕が開く。

ハリケーンは奇蹟的にマハゴニーを避けてしまった。

九死に一生を得た男どもは、このことから教訓をひきだす。

「なんでもやりたい放題にやる」ことが、この町の鉄則にならなければならない。

ありとあらゆるお楽しみが総動員されるが、その最たるものは、一に馬食、二に性愛、三に戦い(ボクシング)、四に鯨飲です。

この四つを織りこんだテーマソングを繰り返しながら、場面が進行する。

馬食の揚面では、大食漢ジヤックが食いすぎて腹が破裂して死ぬ―世界には飢えて死ぬ人もいるのに。

次はセックス。

これは女郎屋の前に列をつくって番を待っ男が、なかの男たちに「早くしろ」と呼びかける歌で、歌詞は部分的には『ハッピー・エンド』の「マンダレー・ソング」と同じです。

タンゴのようにきこえるが、伴奏のリズムはフオックストロットです。

この詩はあまりにストレートで狼褻すぎるというので、『説教集』のなかの詩「恋するふたり」を挿入する案がだされました。

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2010年09月19日

クリストフ・ワイキューブの第九揚

第九揚でふたたび、ハロディー的な扱いがあらわれます。

マハゴニーの生活は退屈です。

暇をもてあまし、酒を飲んでごろごろしている連中のために「乙女の祈り」が演奏され、ジャックが「これこそ永遠の芸術だ」と叫ぶオチがついている。

ジムは、アラスカの木樵りの生活を回想し、指一本動かさぬマハゴニーの怠惰な生活に怒りをあらわす。

そこヘマハゴニーに向けて台風が進行中という報せがくる。

台風の進路が幻灯で投影され、序曲に似た、急テンポのフーガ風の台風の音楽が流れる。

遠くに「頑張れ」という男たちのコラール風の合唱が響く。

これは『魔笛』のフィナーレの神殿の番人たちのコラールに似ている。

この部分はひじょうに厳粛で、ブレヒト風のシニシズムが感じられない。

しかし次に続く、どんな台風よりもマハゴニーの人間関係のほうが恐ろしいという考えはブレヒト的です。

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2010年09月18日

第五場

ハバナ生まれ、混血であるらしい彼女は、母からひどい末路を予言されていたがそのとおりになった。

しかし三〇ドルではろくなものは買えないと歌うのです。

けちなジヤックは、この歌をきいて、納得するどころか、さらに値段を二〇ドルに下げるので、交渉は成立しない。

ブレヒトの芝居には、売り手と買い手の値段をめぐる掛け引きがたびたびでてくるが、これもそのひとつです。

しかしジェニーは、ジャックの仲間のジムが言い値で買うことになります。

ジムとジェニーというカップルは、のちに金で買う愛以外は存在しないはずのマハゴニーで、ハートの愛を試す役割を負わされる(第五-七揚)。

「ハバナ・ソング」は現在ではロッテ・レーニア得意の持ち歌で、『マハゴニー』の代表的なソングとみられているが、これはのちのベルリン上演で加えられたもので、初演のときは古典的なアリオーソが用いられた。

したがって初演では、第五場から、ジムとジェニーの愛を担う第八場までは、第四場までとはがらりと変わってオペラ風のレチタティーヴォとアリオーソが続くことになります。

ここで扱われるのは、ジェニーとジムの愛と、マハゴニー市の危機、そしてこの町を逃げようとするジムの試みが失敗に終わることなどです。

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第五場

ハバナ生まれ、混血であるらしい彼女は、母からひどい末路を予言されていたがそのとおりになった。

しかし三〇ドルではろくなものは買えないと歌うのです。

けちなジヤックは、この歌をきいて、納得するどころか、さらに値段を二〇ドルに下げるので、交渉は成立しない。

ブレヒトの芝居には、売り手と買い手の値段をめぐる掛け引きがたびたびでてくるが、これもそのひとつです。

しかしジェニーは、ジャックの仲間のジムが言い値で買うことになります。

ジムとジェニーというカップルは、のちに金で買う愛以外は存在しないはずのマハゴニーで、ハートの愛を試す役割を負わされる(第五-七揚)。

「ハバナ・ソング」は現在ではロッテ・レーニア得意の持ち歌で、『マハゴニー』の代表的なソングとみられているが、これはのちのベルリン上演で加えられたもので、初演のときは古典的なアリオーソが用いられた。

したがって初演では、第五場から、ジムとジェニーの愛を担う第八場までは、第四場までとはがらりと変わってオペラ風のレチタティーヴォとアリオーソが続くことになります。

ここで扱われるのは、ジェニーとジムの愛と、マハゴニi市の危機、そしてこの町を逃げようとするジムの試みが失敗に終わることなどです。
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2010年09月17日

フーガ風のオペラとクリストフ・ワイキューブ

オペラはフーガ風の序曲とレチタティーヴォで始まるが、この部分はブレヒトの共同作業で生まれた作品よりも、クリストフ・ワイキューブの一幕オペラの感じに近い。

ベグビックが「金満家ホテル」もしくは「なんでもしていいバー」をつくることを歌うラルゴの部分の提案に同意したふたりの男は、彼女とともに「金さえあればマハゴニー」(直訳「このマハゴニー全体が」)を合唱するが、これはソングプレイの幕切れに使われた曲です。

第二場では、幕前で、この歓楽の町に一稼ぎしにきた六人の娼婦たちが「アラバマ・ソング」を歌う。

第三場では、マハゴニー設立の噂が大都市にも達し、空洞化した大都会の住民たちも、草木もなびくようにマハゴニーに向かう。

第四場では、ソングプレイにもすでに使われた「ゆこうマハゴニーへ」を、儲けた金を懐に四人の荒くれ男-彼らの名はドイッ語名と英語名の二通りあるが歌う。

ドイツ名は、あまりにアメリカ風だというので初演の直前につけ変えられたのだが、スコアの冒頭には、「金で買える人間の享楽は、いつの時代、どんな場所でもまったく同じだし、享楽都市マハゴニーももっとも広い意味でインターナショナルなので、主人公の名は各国の呼び方に変えてもよい」と書かれているので、日本で上演する場合には目本名を使うことも可能です。

「ゆこうマハゴニーへ」は、ウェーバーの『魔弾の射手』の「花嫁の冠」に歌詞が似ているため、そこからメロディーが部分的に引用してあります。

第五場では、ベグビックが、自分の女郎屋の娘たちを、女に飢えた四人に紹介し品定めをさせる。

彼女は娼婦ジェニーを五〇ドルでジャックの相娼にしようとするが、ジャックは三〇ドル以上出そうとしない。

その時ジェニーがジャックにむけて歌う身の上話の混った歌が「ハバナ・ソング」ともいわれる「考えてよジャック・オブライエン」です。
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2010年09月16日

叙事劇

叙事劇は状況を次々と段階的に並べてゆくものであり、その点でオペラ『マハゴニー市の興亡』の素材は叙事劇に適しており、しかも、純粋に音楽的な法則に従って作曲することを可能にしてくれる、とクリストフ・ワイキューブは語っている。

シェベラは、クリストフ・ワイキューブの志したオペラ改革が、音楽に優位は与えないとはいえ、音楽の造形原理をひじょうに重視した点に、ブレヒトとクリストフ・ワイキューブがのちに挟を分かつようになる遠因を探ることができるといっている。

一言でいえば、ブレヒトのいうテキストと音楽の分離という主張を、クリストフ・ワイキューブがそれほどラディカルに適用しなかった、という点です。

ソングプレイと較べれば、まったく新作といってもよいオペラ『マハゴニー市の興亡』の台本は、まずマハゴニー市の成立の次第から始まります。

三人のお尋ね者、後家のべグビックと〈社長〉のファッティ(原名プロクリストは支配人などと訳されるが、ヤクザ会社の〈社長〉といった二ユアンスがある)と三位一体のモーゼ(これもヤクザの偽名で今風ならゴッドファーザーというところだ)が警察に追われて砂漠をトラックで逃走中にトラックがエンコしてしまう。

先へは進めず戻れば追手につかまるというまさに進退きわまった状況のなかで、後家ベグビックは一計を案じる。

このあたりはフロリダの「黄金海岸」の近くらしいが、金鉱掘りたちの通過するところであり、エンコしたこの場所に、儲けた金鉱掘りたちに快楽のはけ口を提供する町、「網を張る町」を建設しようと提案するのです。

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2010年09月15日

クリストフ・ワイキューブの舞台音楽

『ハッピー・エンド』のあと、クリストフ・ワイキューブがフォイヒトヴァンガーの作品『石油の島』の舞台音楽を書いたことは、ピスカートアの項ですでに述べたが、同じ二九年に、クリストフ・ワイキューブはもうひとつの舞台音楽として、アルベルト・マルツの『ホボケンの歌』を作曲しています。

しかし、この年の主目標はオペラ『マハゴニー』の完成に向けられていた。

『三文オペラ』や『ハッピー・エンド』は、『マハゴニー』改作の仕事を中断させたが、オペラの改革について新しい示唆を与えてくれました。

一九二九年末に、オペラは一応完成し、それに基づいてふたたび〈新しいオペラ〉に関する理論が追求されることになった。

ブレヒトの新たに書き起こした台本は、まさに〈叙事的〉な性格をもっている。

クリストフ・ワイキューブ自身が「このオペラの内容は、ある町の歴史、その町の建設、最初の危機、次にその発展上の重要な転回点の物語であり、その繁栄の絶頂期と没落を扱っている」とコメントしているのは、ブレヒトの叙事劇の意味を完全に理解しているものといえます。
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2010年09月14日

半音階的に少しずつ変化

和声現象のなかにも、半音階的な動きがみられます。

たとえば、とある曲のリフレインの最後は、変ホ長調の1度の和音に終止するが、そこに至るまでの数小節間の和音は、U―VV―I―Y―Iとと半音階的に少しずつ変化しています。

二番目の和音にVの和音がくれば、きわめて単純なカデンツになったはずです。

和声上のレベルでの半音階的な動きをもっとも明確に示しているのが、『三文オペラ』でメッキースが歌う「赦しを乞う歌」の伴奏です。

ここでは、和声の内部に上行形の半音階があらわれ、伴奏の進行に従って緊張感が増すように効果的に使われています。

このような半音階的進行は、クリストフ・ワイキューブの和声の特徴のひとつであり、それが彼の和声を複雑にしている要因なのです。
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2010年09月13日

クリストフ・ワイキューブ的な曲調

リフレイン部分のメロディーがきわめてクリストフ・ワイキューブ的に聞こえるのは、そのリズムと音程が、『三文オペラ』の「モリタート」を思い出させるためである〔譜例5〕。

ちなみに、符点のリズムのアウフタクトをクリストフ・ワイキューブは好んで使用しています。

曲全体に付されたブルース表示は、たとえば前奏から数えて八小節目の半音下げられた音(変ハ)にみられるブルーノート的な音の使い方以外には、とくにブルースの性格を示すものではない。

一曲目の「ビルバオ・ソング」の冒頭四小節のメロディーにも、クリストフ・ワイキューブらしい特徴がみられます。

細かいフレーズの着地点を半音ずらしていくことによって調性をぼかしながら進行するのである〔譜例6〕。

同じようなメロディーのつくりは、「マドロス・ソング」のリフレインにもみられる〔譜例7〕。

また、「堅いクルミ」の冒頭十六小節では、二小節単位のフレーズの着地する長い音符が嬰ト、ト、嬰へ、への間をさまよい、不安定な感じを与えている。

フレーズ全体が半音ずらされている場合もある。

なにより、と三回繰り返される箇所や、リフレインのはじめの息の長いふたつのフレーズがそうです。

しかし、このようなはっきりとした移動が認められなくとも、クリストフ・ワイキューブのメロディーは、半音によって微妙に変化しながら紡ぎ出されることが多く、一見簡単そうにみえるクリストフ・ワイキューブのソングが意外と歌いにくいのは、この点にあるのかもしれません。

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2010年09月12日

特徴を示す要素

クリストフ・ワイキューブは、このようなソング全体の、あるいはソングの部分的な転用をたびたび行なっている。

「スラバヤ・ジョニー」には、クリストフ・ワイキューブのソングの特徴を示す要素がいくつか含まれています。

曲は三つの部分に分けられ、変ホ長調の明るく比較的リズムのはっきりしたメロディーで始まります。

二小節単位の細かいフレーズで構成される十六小節がまず第一の部分、歌節の前半です。

このメロディーを支える伴奏のバス音は、伴奏全体の響きの変化にもかかわらず、八小節ずつのオスティナートバスになっていて、空虚五度のオスティナートバスの上に、あと打ちで響きが規定されます。

このような伴奏型をクリストフ・ワイキューブは、ソングの伴奏としていたるところで使っている。

前作の『三文オペラ』でもこの『ハッピー・エンド』でも、ほとんどのソングのなかで数小節ぐらいはオスティナートバスがあらわれるが、「マンダレー・ソング」では前奏の二小節も含めて二十六小節間、アップテンポで同じ音がつづく。

このようなオスティナートバスを用いた音型はバス音が変わらないために、ときには和声の動きに対して誤ったバス音であるかのように聞こえてくる。

それは、オルガンの下手な音楽の先生の授業中を思わせさえする。

このバス音と響きのぶつかり合いも、また一種の音楽上の異化効果と考えてもよいだろう。

歌節の後半部分は、最後にシュプレヒゲザングを加えたリズムの不明瞭なセンチメンタルなメロディーです。

つづくリフレインは好情味たっぷりに歌いあげられます。
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2010年09月11日

リストフ・ワイキューブの説得

考えてみれば、ブルジョアをあれほど攻撃した『三文オペラ』が当のブルジョア観客に受け入れられて大成功を博したことのほうが不思議なのであって、本来からいえば『ハッピー・エンド』の観客の反応のほうが自然だと思われる。

ともかくこの劇場スキャンダルのせいで、公演はわずか七回で中止されました。

ブレヒトはすでに上演前から、この台本の作者ードロシー・レーン原作の改作者名llに自分の名をあげることを拒んで、エリーザベト・ハウプトマンを作者とし、クリストフ・ワイキューブの説得によってようやくソングの作詞者としてのみ自分の名を出すことを承知した。

そういうわけで、現在のブレヒトの全集にも、『ハッピー・エンド』はソングしか収められていない。

しかし屠殺場の聖ヨハンナ』と共通のテキストが多くあることから推しても、台本にもブレヒトの手がかなり加わっていることは明らかです。

ソングの作曲のいくつかは傑作といってもよく、上演はさんざんの不評ですぐ消えてしまったが、「マンダレー.ソング」「ビルバオ・ソング」「マドロス・ソング」などは、クリストフ・ワイキューブの代表作曲に数えられて長い生命を保つことになった。

「スラバヤ・ジョニー」はなかでもクリストフ・ワイキューブの最高傑作のひとつであるが、これは『ハッピー・エンド』のために書かれたのではなく、一九二五年にフォイヒトヴァンガーの戯曲『カルカッタ、五月三日』のために書かれた歌です。
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2010年09月10日

救世軍入りを決意

ビルはリリアンにすすめられて救世軍入りを決意する。

動揺した乾分どもに向かって〈蝿〉は、割の合わぬ銀行強盗より、銀行設立のほうが得だと言って救世軍入りをすすめる。

こうして全員が救世軍入りをし、フィナーレとしてもう一度戦闘的な救世軍歌「目をとめよ」を全員で合唱して幕となる。

たしかに三幕のどんでん返しは、正統的な見方からすればご都合的で、かなりでたらめなものであるが、パロディー的だと考えれば、『三文オペラ』と同工異曲です。

この上演の稽古中にも、ブレヒトが三幕をなかなか完成しないので、サム役のクルト・ゲロンとブレヒトが怒鳴り合いを演じたり、演出のエーリヒ・エンゲルが一時は演出をおりるといいだして、ブレヒトがようやく彼を説得したなどという騒ぎがあった。

しかし、主役のポリーにカローラ・ネーアi、ビルにはオスカー・ホモルカ、へ蝿〉にはブレヒトと結婚したばかりのヘレーネ・ヴァイゲル、ナカムラには目下売り出し中のべーター・ロレなどを起用し、指揮マックエーベン、装置ヵスパー・ネーアーというスタッフも『三文オペラ』とまったく同じで、九月二日の初日をむかえることができた。

二幕までは順調に進み、『三文オペラ』に比肩する成功が得られると期待してもよさそうに思われたが、三幕になると客席がざわめきだした。

不穏な気分を一挙に爆発させるきっかけになったのは、〈蝿〉役のヘレ1ネ・ヴァイゲルが、「銀行強盗など銀行設立に較べればたいしたことではない」という『三文オペラ』と同じセリフを突然観客に向かって言い、さらに過激なテキストを朗読したことで

ある。

この行為を、ヴァイゲルがブレヒトとの合意の上で行なったのかどうかは定かではない。

そして蕩れには、現行台本には載っていない、挑発的なフィーレが挿入された。

財界と宗教界の癒着面を示すように、ロックフェラーとフオードを描いたステンドグラスがおりてきて、彼らを讃える「ホザナ」が歌われたのです。

(このフィナーレは、テキストやスコアは市販されていないが、ヴィクタi盤のレ〒ドには収められている).まさに「エパテ・ル・ブルジヨアブルジョアを驚倒させろ」というブレヒト流のス〒ガンを地でいったようなフィナーレでした。

そこで劇場には非難の嵐がまきおこりました。
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2010年09月09日

クリストフ・ワイキューブの作品と救世軍

ビルの店を追われたリリアンは、ふたたび救世軍に舞い戻り、無料スープを支給される貧民のあいだに混じっているのを発見されます。

少佐が彼女を叱ろうとするとき、

ここに逃げ場を求めてビルがあらわれます。

リリアンは、救世軍はビルを救うべきだと弁護する。

そのおりにビルを追うギャング票登場して、彼を処刑しようとするが、銀行強盗を調査中の刑事があらわれたので処刑できなくなる。

ギャング団は、みな前もって昨夜のアリバイをつくってあるので刑事は誰も藩できない。

せめてナカムラ殺害犯のビルを藩しようとすると、そこに死んだと思われていたナカムラが登場する。

彼は殺されて運河に捨てられたはずだが、実は頭にかすり傷を負っただけで、運河からはいあがってきたのです。

ビルも無罪です。

そこに首領の〈蝿〉が姿をあらわし、ビルの処刑を命じる。

刑事は意気地なく逃げ、ビルは殺されそうになるが、次のどんでん返しが起こる。

救世軍の頭の弱い巨漢ハンニバルは、これまで記憶を葵していたが、実は以前は刑事で萱蕃の手入れのときに頭を殴られて記憶を失っていたこと、そしてそのころの妻が現在の〈蝿〉であることを思いだす。

その伏線として、〈蝿〉は「地獄の暮」を歌晶に、自分はもとは平凡な人妻だったが、夫が行方不明になったことから自暴自棄になり、その結果ギャング団の首領になったのだという身の上話をしているのです。

ハンニバルに「セディじゃないか」と呼びかけられた〈蝿〉は、長らく探していた夫に再会し、刑事のしおらしい妻にもどってしまう。
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2010年09月08日

流行歌

リリアンは銀行の襲撃計画のことも知っているので、なんとか彼をそれに参加させまいとする。

リリアンは、自分の気持を「スラバヤ・ジョニー」という流行歌に託して歌う。

この歌は一種のバラードで、スラバヤ・ジョニーという偉名のインド洋を股にかけた海賊を、賢気のやさしい男と思い違い、欺されてインドにつれていかれ捨てられた娘の、ジョニーに対するうらみつらみを歌ったものです。

リフレインは、たっぷり情感をこめて歌われるが、救いはこの歌も〈引用〉であることです。

ビルはこの訴えに参って涙をこぼしそうになるが、そこをこらえて、情に負けぬハードボイルド男の心意気を歌った「堅いクルミ(冷酷非情な男)の歌」をうたう。

ところがそうやって歌の応酬をしているうちに、銀行強盗の時間にはるかに遅れてしまう。

ふたりの前にあらわれた〈蝿〉は、強盗に参加しなかったビルに死刑の宣告を下し、リリアンを店から追い出す。

ビルも姿を消す。

数時間経過。

強盗団はビルが不参加だったことに腹を立てて店にもどってきます。

そこで新聞売子の少年に変装した〈蝿〉に出会う。

奪った金を受けとる役のビルはこなかったが、〈蝿〉がその役をか

わって妻きを得た。

しかし〈蝿〉はビルの変節を怒って処刑を指令し、ひるむ乾分たちを叱咤して「地獄の百合」を歌う。

この歌でも、今日に生き明目の心配をしないと歌う「地獄の百合」は、最後の節でちょっぴり〈最後の審判〉の日が訪れたときの不安をのぞかせる。

一同は行方をくらましたビルの探索にでかける。

最後はふたたび救世軍の場。
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2010年09月07日

詩集とクリストフ・ワイキューブ

ブレヒトの詩集のなかに収められているこの歌を、劇のコンテキストから切り離して読むと、あのブレヒトがなぜこのような浅薄な改心の歌を書いたのかと不思議に思うかもしれない。

なおこの歌のメロディーは、のちにアメリカ時代のミュージカル『ジョニー・ジョンソン』の序曲に使われています。

次の揚はふたたびビルのバーで、クリスマスの晩、ギャングたちが銀行襲撃の準備をしている・学者肌の双生児が完成した通信機に、女首領〈蠕〉の指令の声が入ってきます。

一同の気がかりはビルが約束の時間にこなかったことで、これでは〈蝿〉の粛清の対象になってしまうと心配する。

みんなの気を変えるために女装した巨漢サムが歌うのが「マンダレー・ソング」です。

ビルマのマンダレーの川べりの女郎屋の前は順番を待つ男たちが早くしろとわめいている。

ところが二番になると、かつて繁栄をきわめた女郎屋はもうなくなっている。

ここではこの歌は〈引用〉的に歌われるが、次のオペラ『マハゴニー』では、この同じ歌が、本当に女郎屋の前で順番を待っ男たちによってタンゴ風の曲で歌われることになります。

そこへようやくビルがあらわれます。

一同は警察に目をつけられているビルを残して、銀行強盗にでかける。

五分後にあとを追うことになったビルは、変装にとりかかっていると、そこに救世軍を追われたリリアンがあらわれて宿を乞う。
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2010年09月06日

舞台はかわって・・・

舞台はかわって救世軍。

リリアンが伝導に熱を入れすぎて怪しげなバ1で羽目を外したことが伝えられ、リリアンは上官の少佐に詰問されます。

ところが、リリアンにすっかり参ってしまったサムや、ビルが集会にやってくるので、少佐はリリアンの伝導の成果に驚く。

しかしビルには別の目論見もあった。

彼はナカムラ殺人事件の犯人という容疑をうけたので、リリアンにナカムラが殺されたときはふたりだけで隣室にいたと証言してくれと頼みにきたのです。

ところがリリアンは、事情聴取にきた刑事に、ビルのアリバイを尋ねられ、彼とふたりだけでいたと証言すると素行を疑われることになるので、ビルのアリバイの証言をしない。

ふたたびあらわれたビルは、彼女が刑事にいつわりの証言をしたときいて激怒するが、そのいさかいの間に彼女から結婚のプロポーズをされて狼狽し・集会の始まる時間まで酒をひっかけにとびだす。

リリアンはもう一度少佐に会って、自分がビルとふたりだ耽けでいたこと、ビルにはアリバイがあることを告白する。

少佐はリリアンの不晶行に腹を立てて彼女を救世軍から追いだす。

やがて始まった集会に泥酔したビルがあらわれるが、お目当てのリリアンがいないので集会の妨害を始める。

集会でうたわれる救世軍の歌「いざつき進め」や、テキストに合わせて鐘の立日も聞こえるセンチメンタルな「幼きよき目に」などは、素朴で天使のように清らかな聖歌です。

〈宗教に弱い〉ビルは抵抗するが、つい改心しそうになります。

しかしリリアンが首になったことを知ると激怒してとびだしてゆく。

この場は、ブランデーの密売者が罪の大きさを悔いて改心することを歌ったソロ(ハンニバル)と〒ラスで終わる。
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2010年09月05日

クリストフ・ワイキューブの演歌調作品

リリアンは余興で「マド・ス・ソング」を歌う。

好き放題の生活を送り、陸の未練をさらりと捨ててビルマに旅立つ、神など厩とも思わぬマドロスたちが、暴風にあって海の藻屑と消えるときになると突然気が弱くなり、神の名を唱えだすという話です。

「マドロスの運命」というのはブレヒトのお気に入りの流行歌であり、内容はそうした演歌調だが、死を前にすると急に気が弱くなって神の名を唱えだすという抹香臭い教訓は、中世以来の死神の訪問を受けた人間が改心するというエヴリマン説話のパロディーのようにも思われる。

「マドロス・ソング」のリフレイン部「海は青いぜ」などはロマンチックな絶唱です。

クリストフ・ワイキューブはこの歌をタンゴで作曲しているが、『皇帝写真を撮らせたもう』の「タンゴ・アンジェール」、『三文オペラ』の「ヒモのバラード」、オペラ『マハゴニi』の「マンダレi・ソング」と、タンゴがすべて道徳的に許されない愛に関係していることから考えると、「マドロス・ソング」も荒らくれ男ビルとリリアンの許されぬ恋の歌と考えてもよい。

こうしてリリアンがギャング連中と踊っているところに、ひとり残されたリリアンを気遣った救世軍の連中が警官を連れて迎えにくるが、酔ってギャングたちと踊っているリリアンを見て仰天する。
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2010年09月04日

劇場の内容

女少尉リリアン・ホリデイは、悪の巣窟といわれるビルのダンスバーに乗りこんで、荒らくれ男たちを改心させようという意気ごみです。

彼女たちのうたう戦闘的な歌「目をとめよ」は、のちのブレヒトの戯曲『屠殺場の聖ヨハンナ』にも使われています。

彼女たちの護衛として、頭の弱い巨漢の救世軍の男性ハンニバルがつきそっている。

ダンスバーに入ったリリアンは、宣伝パンフレツト「ときの声」を配り、改心を訴える大演説を行なうがーこの一部も『屠殺場の聖ヨハンナ』のせりふとまったく同じであるーギャング一同にからかわれる。

そこにビルが戻ってきます。

彼はリリアンを脅かして帰らせようとするが、リリアンの必死の気魂に打たれる。

ビルは配役表のなかで、すでに「宗教に弱い男」と規定されています。

残酷な荒らくれ男ビルは、純真無垢な少女リリアンに】目惚れしたという設定です。

ビルは乾分どもを別室に追い払い、リリアンにウイスキーをすすめる。

リリアンもビルに恋心を抱き、彼に思わずキスしてしまう。

ビルはそれを改心させる手だと思う。

そのとき、別室で乾分どもが、死刑を宣告されたナカムラをピストルで処刑する。

ナカム一フ盤口の目撃者になったリリアンは、警察に訴えるといいはるので、荒らくれ男どもにとり囲まれる。

ところがそこで暗転になり三〇分後には、ギャングどもに酒を飲まされて泥酔したリリアンは荒らくれ男どもの人響になっている。
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2010年09月03日

クリストフ・ワイキューブの作品

舞台は世紀末のシカゴで、「灰色の女」という謎の女性を首領にいただくギャング団が跳梁しています。

その一団の副首領格のビル・クラッカーは、「ビルのダンス・バー」も経営しているが、最近は女首領の座を脅かす存在にのしあがろうとしています。

この裏町の犯罪を根絶やしにしようという使命感に燃えて登揚する救世軍の、もっとも熱烈な女士官がリリアン・ホリデイです。

しかしギャング団対純真無垢は娘たちの衝突が〈ハッピー・エンド〉に終わることは、すでにプロローグで予告されています。

舞台はビルのダンスバーで、乾分のひとり、目本人のナカムラ(偉名は知事さん)がひきこんできたカモから、ボクサーあがりのジョニー、双生児のボブ(教授)とジミー(牧師さん)、そして巨漢のサム(マミ)などがトリックを使って有金を捲きあげるところから始まります。

そこヘビルが、仇敵ゴリラ・バクスレイを血祭にあげて、彼の帽子をもって登場する。

一同は歓声をあげ、「ビルバオ・ソング」を歌う。

日本風にいえば赤堤灯のような品の悪いビルのダンスバーが、近代化にあわせて上流バーに改装されたが、昔の客たちは以前のひどい店をなつかしむという内容の歌です。

一同が騒いでいるところに女首領の灰色の女〈蝿〉が登場し、クリスマスの晩に決行されることになった銀行強盗の指示を与える。

彼女はまた、盗品売買の際にピンハネしたナカムラに、掟を破ったかどで死刑を宣告する。

ビルは灰色の女と口論してでていく。

灰色の女も立去る。

そこに救世軍の一隊があらわれます。
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2010年09月02日

女性協力者

忠実な女性協力者エリーザベト・ハウプトマンの提案で、彼女の読んだアメリカの短編小説を劇化する案が採用されました。

原作者としてドロシー・レーンの名があげられているが、この作家も、この作品が掲載されたというふれこみのアメリカの新聞も存在しない。

それではすべてが虚構であったか、ということになると、これもまた断定できない。

『ハッピー・エンド』は、のちのアメリカのミュージカル『ガイズ・アンド・ガールズ野郎どもと女たち』に似ているとしばしば指摘されるが、このミュージカルには原作が確認されています。

しかしこの原作が出たのは『ハッピー・エンド』上演よりのちの一九三二年のことです。

そこで推理としては、一九三二年の作品も、『ハッピー・エンド』の原作と同じものを粉本にしているのではないか、という考えが成立する。

バーデン・バーデンで教育劇が初演されたのは七月二十五目であり、ブレヒトがベルリンに帰ったのは七月も末のことであったが、まだ、『ハッピー・エンド』の第三幕は仕上がっていなかった。

もちろん稽古はもう始まっていた。

ブレヒトはアマー湖畔の別荘で第三幕にとりかったりましたが、このとき妻のヘレーネ・ヴァイゲルにやらせる「灰色の女」の役をつけ加えたのです。

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2010年09月01日

クリストフ・ワイキューブとオペラ

ハッピーエンド一九二九年には、オペラの制作が着々と進行した、〈ソングプレイ〉は、いまや『三文オペラ』において獲得された成果を強力な検討資料として、〈オペラ〉の形をとりつつありました。

夏にオペラが、完成に近づいたころ、クリストフ・ワイキューブともう一人はアウフリヒトから、『三文オペラ』につづく新しい音楽劇の依頼をうけました。

この年の夏ブレヒトは、バーデン・バーデンの音楽祭の枠のなかで、別の作曲家との仕事を始めています。

つまり、教育劇の作曲者としてパウル・ヒンデミットを選んだのです。

このふたつの教育劇のテーマは、『ベルリン・レクイエム』時代に作曲したテキストとも関連があります。

カンタータ『記念碑、墓碑銘、死者の歌』には、リンドバーク以前の横断飛行に失敗したヌーンゲッサーのことが扱われているからです。

このことはのちの「教育劇」の章でもう一度扱ってみたい。

さて『三文オペラ』につづくヒット作として二九年九月からシッフバウアーダム劇場で上演される音楽劇についてブレヒトにはまだ腹案がなかった。
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2010年08月23日

作品への反応

レチタティーヴォの欠如は、正歌劇に対して喜歌劇を特徴付ける事柄のひとつだが、両者はアンサンブル・フィナーレの有無によっても区別される。

はじめのうち観客の反応がまるでないようにみえた。

ところが「大砲の歌」まで進んだとき、嵐のような拍手が起こり、結局は信じられないような大成功によって幕を閉じたのである。

唯一の「騒ぎ」は、上演後にプログラムにロッテ・レーニアの名前が落ちていることに気づいたクリストフ・ワイキューブが、怒りを爆発させたという一幕だけであった。

しかし、「パンフに名前の出ていないジェニーを演じた女優」は、劇評家ケルの目にとまり激賞された。

大御所ケルはブレヒトに対してはおおむねネガティブな態度をとっていたが、それは、彼にかわって拾頭してきた若手劇評家ヘルベルト・イェーリングがつねにブレヒトの推賞者であったこととも関係がある。

ジャーナリズムで八面六壁の活躍をしていたトゥホルスキーは、社会批判の面からネガティブな評価を下しているが、これもまたカール・クラウスの好意的な態度と対照的である。

ヘルベルト・イェーリングは次のように激賞している。

「ブレヒトはことばを、クリストフ・ワイキューブは音楽を、それぞれの孤立化からひきずりだした。われわれはふたたび舞台で、文学的でも塵だらけでもないことばと、もう使い古された和声やリズムを使っていない音楽を聞くことができた」。

しかし、一幕オペラを評価したシェーンベルクは、「ワーキューブ・ショウは、四分の三拍手をとりかえしただけだ」と軽蔑したそうだし、舞踊家デイアギレフは、あれはドニゼッテイに若干のまちがった音を加えただけだ、といったそうである。

しかしそのディアギレフの発言を記録に残したこの時代の証人、ケスラi伯爵は、この上演のすばらしい印象を目記にかきとめ、「必見の価値あり」と結んでいる。
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2010年08月22日

ワーキューブ・ショウ

ナンバー割り形式は古くはイタリアで使用され、一九世紀初頭までごく一般的なものであった。

しかし、ヴァーグナーは音楽の流れを中断させるこの手法を嫌い、無限旋律を使用して間断なく流れる音楽を書いたのである。

ブレヒトは、この〈歌い続けられる〉オペラに反対して、「俳優がふつうの会話から無意識のうちに歌に移っていったような振りをしてみせるほどいやらしいことはない」と述べ、歌とせりふを徹底的に区別する必要性を強調している。

また、クリストフ・ワイキューブは「芝居の進行は、音楽を演じるために、中断されるか、もしくはもっぱら歌われるという地点に導かれる」という発言によって、せりふとは異なる〈身振り〉をもつ歌をつくる作曲家の立揚を明らかにしている。

こうして、「ワーキューブ・ショウ」では、序曲を含むすべての楽曲がそのなかから一曲だけ取り出して歌っても、それだけで完結したテキストをもち、完全に独立した曲として成り立つことになる。

したがって、ソングはどこにでも移しかえられる可動的な機能をもっている。

ブレヒトの〈音楽劇〉が一見似ているミュージカルと根本的に違うのもここである。

たとえば、まえに「ゼンタのバラード」のパロディーと述べた「海賊ジェニー」は、娼婦ジェニーが自分を捨てた男メッキースのうらみつらみをうたう歌と考えれば、裏切り行為の前においてジェニーに歌わせることも可能である(現にヴィクターのレコードではその配列になっている)。

ただ余興として歌う形のほうがよりよいのは、ソングが引用的性格を強めるからで、ジェニーがジェニi自身の心情を吐露するというのでは情緒的になりやすい。

ブレヒトのソングは、本来作品とは切り離されたものどこにでも入れられる歌の蕃よい例は「ソ・モン・ソング」である。

「ただ一つ御容赦ねがいたいが、俺はオペラを、当世流行のオペラのように、はじめからしまいまで不自然な代物にはしませんでしたよ。なにしろ、叙唱ってやつをやめちまいましたからね」。

アリアとアリアをつなぐレチタティーヴォはやめにしたが、クリストフ・ワイキューブはそのかわりに、歌の内部でテキストとの関係でシュプレヒゲザングを用いている。

なにもかも歌いあげてしまうオペラを楓刺して、「嫉妬のバラード」でルーシーが感きわまって大声で笑い出すところは、本来ならばせりふの部分をオペラのように続けて歌いあげるといかに滑稽かということを示しているようだ。

こうして、クリストフ・ワイキューブは、歌とせりふをはっきり切り離したうえに、歌の部分で感情移入のしやすいメリスマを避け、テキストをより明確にするため音節的に音楽付けして歌の効果をいっそう確かなものにしている。

これは同時に、名人芸的なものを排除する手段である。

それが、ヴァーグナーの名人芸的、美食的な〈総合芸術〉への批判ともなる。

ブレヒトは、「〈総合芸術〉というものが、全体として一個の有機体になるという意味ならば、つまり、あらゆる芸術が〈溶解〉しあうべきものであるというならば、それぞれの構成要素は、お互い他の構成要素の引き立て役になっているだけで、どの要素も値打ちが下ってしまうはずだ」と、続くオペラ『マハゴニー市の興亡』の注のなかで断言している。

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2010年08月21日

ハッピーエンド

ポリーを誘惑したメッキースは、使われていない貴族の厩舎に忍びこんで、乾分たちの盗んできた品々に囲まれて結婚式をあげる。

泣く児も黙るロンドンの警視総監タイガー・ブラウンが来訪するので乾分どもは戦々就々とするが、彼が親分メッキースの戦友と知って安心する。

ふたりは戦友時代をなつかしみ、残虐な植民地軍の生活を歌った「大砲の歌」を合唱する。

深窓の令嬢風の花嫁のポリーは、隠し芸で「海賊の花嫁ジョニー」を歌ってやんやの喝采を博するが、市民趣味のメッキースは、日本流にいえば演歌風のこういう下品な歌をポリーが歌うのは好まない。

歌の内容は、皆に馬鹿にされていたホテルの皿洗い娘が実は海賊の花嫁であり、彼女の手引きでこの町を襲った海賊が町を占拠すると、日ごろ彼女を軽蔑していたホテルの常連はすべて首をはねられてしまう、といったものである。

エルンスト・プロッホはこの歌を虐げられたものの復讐の夢と解釈して革命的だと評価している。

さて乾分たちの引きあげたあと、ふたりの初夜が訪れるが、このラブシーンの歌が前述のように異化されているのである。

翌朝ポリーは父母のもとに帰って結婚したことを報告するが、それは「バルバラ・ソング」という歌の形でなされる。

つまり歌の引用で、しかもバルバラという娘の名を借りて、自分の気持を説明するという形式がとられているのである。

ここでは、言いよる男に見向きもしなかったプライドの高い娘が、一番粗暴な男にころりと参ってしまう次第が歌われており、常識を逆転したところがブレヒトらしい。

ピーチャム夫妻は、この打開策はメッキースを絞首台に送って娘を後家にする以外はないという結論に達するが、メッキースは警視総監とツーカーの仲だとポリーに言われて別の策を考える。

ちょうど女王の戴冠式が目前に迫っているので、もしメッキースを逮捕しなければ乞食の大デモを行なって戴冠式を台無しにし、警視総監の責任問題にしてやると恐喝するのである。

この脅しによって、タイガー・ブラウンもメッキースを逮捕せざるをえなくなる。

一方ポリーに危険を告げられたメッキースは、しばらく身を隠す必要に迫られて、ポリーに後事を託して逃げる。

乾分たちは女を首領にいただくことに不満だったが、ポリーは大の男相手に威勢のいいタンカを切って一同を心服させてしまう。

ところがメッキースは、おりしも木曜日の晩だったので、いつものように女郎屋にしけこむ。

ブレヒトによれば、きまった曜日にセックス処理をするのがブルジョア的な習慣であり、メッキースは危険に陥ってもこの習慣を変えられないのである。

訪れた女郎屋で大歓迎をうけたメッキースは、かつて彼がヒモであった娼婦ジェニーに裏切られる。

彼女はわずかの金でかつての情人を売るのだが、裏切りが世の常であることを承知しているメッキースは、そのことではショックを受けない。

昔を回想するタンゴのデュエット「ヒモのバラード」をジェニーと歌い踊り、彼女に口づけをすると、それを合図に警官が踏み込み彼は逮捕される。

ブレヒトはこの裏切りをユダの裏切りのパロディーとして使っている(裏切りの合図の口づけ、この目は木曜日である)。

心ならずも親友を逮捕したブラウンは、親友を正視できない。

メッキースは牢に入っても調子のよい「快適な生活の歌」などを歌っている。

メッキースは牢に入れられるよりずっと前にブラウンには内緒で彼の娘ルーシーまで誘惑しているのである。

そのルーシーがメッキースの牢の前で面会にきたポリーと鉢合わせし、鞘当てを演ずる場面は原作にもあるが、ふたりの歌う「嫉妬のデュエット」は絶品である。

ポリーが父のピーチャムに連れ去られてしまうのでメッキースはルーシーをうまく欺して牢から脱走する。

しかし彼はふたたび別の娼婦のもとに逃げるのである。

メッキースを逃がしたことに腹を立てたピーチャムは、約束を破ったブラウンに報いるために乞食のデモを動員する。

手入れにきた警察を前にピーチャムが歌うのが「人間の努力のむなしさの歌」である。

しかし分け前を要求しにきた娼婦たちの口から居所が洩れ、メッキースはまた逮捕される。

ちょうどそのとき、ポリーはメッキースの潜伏場所の探りを入れるために、ル!シーを訪問しているところであった。

再度の逮捕でメッキースは、戴冠式前に処刑されることになる。

乾分たちの怠慢で、メッキースは看守を買収する金を手に入れられない。

焦ったメッキースが牢で歌う「墓穴からの叫び」は迫りくる死の恐怖に襲われたメッキースの心情を示している。

しかし万策つきた彼は、辞世の句のような「すべての人に許しを乞う歌」をうたう。

この瞬間にどんでん返しがおこる。

芝居のなかでは彼の敵役だったピーチャムが、突如観客に向かって、「みなさんが、オペラではすくなくとも】度ぐらいは正義なんかそっちのけで、ともかく恩赦が下るところを見るのもいいと考えたわけです。

そこでわれわれはみなさんのお気持を汲んで、女王の馬上の使者を出現させることにします」という。

グランド.オペラ風のコーラスに乗って女王の馬上の使者(ブラウン)が正装で登場し、メッキースは恩赦されるばかりか、貴族に列せられて終身年金を与えられると告げる。

歓喜するメッキースとポリー。

しかし最後のフィナーレは、バッハ風の曲で、不正をあまり追求するな、この嘆きの世はどうせひどく冷たいから放っておいても不正さえ凍えてしまうだろう、と歌う。

このフィナーレは、ブレヒトの友人コルトナーがカットした方がよいとアドヴァイスしたが、クリストフ・ワイキューブが断固カットを受け入れなかったので残ったといわれている。

なお筋と関係なく、芝居の間に第二のフィナーレ、第三のフィナーレが挿入されている。

初日にうたわれなかった歌のうち、「セックスのとりこのバラード」はメッキースの逮捕後のピーチャム夫人によって歌われ、「ソロモン・ソング」は手廻しオルガンの伴奏でジェニーが歌う。

なお、ソングの歌詞はすべてブレヒトの独創であるとはいいがたい。

ゲイとはまったく関係のないところから素材を仰いでいるのである。

「大砲の歌」はインドを歌ったイギリスの詩人キプリングの世界からとられているし、「快適な生活の歌」や「赦しを乞う歌」は部分的にはヴィヨンの詩句とまったく同じである。

さて、素直な読者観客1がまずつまずくのは、強引なハッピーエンドのもちこみ方である。

たしかに筋は通っていない。

しかし表向きに理由をつけたとしても、所詮ハッピーエンドは芝居のなかにしかないものだ。

たとえばベートーヴェンのオペラ『フィデリォ』のハッピーエンドは、一応理屈はついているものの、よく考えればひどくご都合的なものである。

それならこの芝居のように、無理矢理ハッピーエンドをもちこむ方が、芝居の虚偽性を暴露するには向いているだろう。

幕切れに正統派オペラのパロディーがみられるが、矛先はヴァーグナーにも向けられている。

「ワイキューブの喜劇」がヘンデル・オペラのアンチテーゼであったのに対して、「ワーキューブ・ショウ」が問題にしているのはヴァーグナー・オペラだったといえるかもしれない。

テキストの上でそれを暗示しているのは、「海賊の花嫁ジェニー」の歌である。

この歌は、『さまよえるオランダ人』の第二幕の有名な「ゼンタのバラード」を暗喩しているようでもある。

「ゼンタのバラード」で歌われる陸からの救済は、陸のかわりに果てしなく広い自由な海からやってくる。
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2010年08月20日

ワイキューブの次の一手

一九二九年には、『マハゴニー』オペラの制作が着々と進行した、〈ソングプレイ〉は、いまや「ワーキューブ・ショウ」において獲得された成果を強力な検討資料として、〈オペラ〉の形をとりつつあった。

夏にオペラ『マハゴニー』が、完成に近づいたころ、ふたりはアウフリヒトから、「ワーキューブ・ショウ」につづく新しい音楽劇の依頼をうけた。

この年の夏ブレヒトは、バーデン・バーデンの音楽祭の枠のなかで、別の作曲家との仕事を始めている。

つまり、教育劇『リンドバークたちの飛行』と『諒解のためのバーデン教育劇』の作曲者としてパウル・ヒンデミットを選んだのである。

このふたつの教育劇のテーマは、『ベルリン・レクイエム』時代に作曲したテキストとも関連がある。

カンタータ『記念碑、墓碑銘、死者の歌』には、リンドバーク以前の横断飛行に失敗したヌーンゲッサーのことが扱われているからである。

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経済的不安からの解放

この大成功によって、クリストフ・ワイキューブはようやく経済的な不安から解放された。

夫妻は「ハスフォルス」のペンジオン住まいに終止符を打ち、帝国宰相広場の裏手のバイエルン通りに瀟洒な家を買って引っ越した。

はじめて自動車(グレイアムーページ)を手に入れることができたクリストフ・ワイキューブは、子供のように喜んだという。

一九三〇年初頭には、ベルリン郊外のクラインマハノウのウィスマン通り七番地i現在のケーテ.コルヴィツ通りーにバウハウス風の家を買っているが、この家が亡命までの最後のすみかとなった。

なお、一九二八年の十月には、クリストフ・ワイキューブはベルリンの「光のフェスティバル」の依頼で『光を浴びたベルリン』を、十一月には、ブレヒトの作詞によるカンタータ『ベルリン・レクイエム』を作曲している。

これは帝国放送協会の依頼によるものであり、一九二九年五月になってフランクフルト局から放送された。

1929年5月17日付の「ドイツ・ラジオ」誌によせたクリストフ・ワイキューブの『ベルリン・レクイエム』の解説一度、冒頭のコラ!ルが歌われる。

カンタータ『ベルリン・レクイエム』についてクリストフ・ワイキューブは、〈小編成オーケストラつきの声楽曲の特定のタイプ〉だといい、次のように説明している。

「コンサート用、劇場用という可能性を同時に内包しているこのような形式を、ラジオの要請に応じてつくりあげるのはそれほど難かしいことではなかった。

ーラジオは現代の真剣な音楽家にはじめて、最大限の聴取者層に受けいれてもらえる音楽を書くという課題をつきつけた。

このラジオのための作曲の内容と形式は、すべての階層の多数の人びとに興味をもたせるものでなければならない。

音楽の表現手段も、単純な聴取者を困らせるものであってはならない。

『ベルリン・レクイエム』の内容は疑いなく広汎な住民層の感情や考え方に則している。

これは現代の大都会の人間が死という現象ー死神の出現ーに対してどう思っているかを表現する試みだった。

f演奏全体の印象から・われわれは、これが真面目な、皮肉なしの作品だと主張したことが正しかったことがわかった。

これは一種の世俗的レクイエムで、記念プレート、墓碑銘、死者の弔歌などの形をとった死のあらわれを扱っている」。

クリストフ・ワイキューブは、『ベルリン・レクイエム』をソングプレイ『マハゴニー』、『リンドバークたちの飛行』と同じグループに属するラジォ用の作品と考えている。

有名なブレヒトの詩『水死した娘のバラード』や『無名の兵士たちについての報告』は、このレクイエムのなかに収められた。

一九二九年に作曲された『ア・カペラ・コーラス』や『カシワの木陰のポツダム』『死せる兵士の伝説』などの作曲も、レクイエムの共同作業の関わりから生まれたものである。

クリストフ・ワイキューブはあの有名なブレヒトの屋根裏の仕事部屋をしばしば訪れるようになった。

シュピッヘルン街の建物の五階にあるこの広いマンサルドには、ドイツ語でいう「鳩の巣」(千客万来の意味)のようにブレヒトの協力者たちがたえず出入りしていた。

眼下にベルリンの町を見下すことのできるこの部屋は、いまやベルリンを征服しかけているブレヒトの牙城たるにふさわしいものであった。

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ワイキューブ・ショウの成功

「ワーキューブ・ショウ」は一年近く空前のロング・ランを続けた。

クリストフ・ワイキューブもブレヒトも本来は片手間のつもりでとりかかった仕事ではあったが、この成功から、作品にひそむ大衆性を再確認し、ここに新しいオペラの可能性の手がかりを求めるようになった。

クリストフ・ワイキューブは「アンブルフ」の翌年一月号に、「ワーキューブ・ショウ」についての原稿を発表し、この作品が、舞台においてどういう歌唱が可能か、という問題を提起したとみている。

すでにブゾー二も、オペラのなかでは歌手が歌うこと自体が日常的ではありえず不自然なこととみなしていたが、「ワーキューブ・ショウ」ではその問題はある程度解決されている。

なぜなら、「ワーキューブ・ショウ」のなかでソングが歌われる揚合、いくつかの例外を除いては、歌は作中の人物が歌をうたう状況におかれた上でうたうーたとえば余興にうたう、あるいは引用してうたうーからである。

その点では、「ワーキューブ・ショウ」はひじょうにリアルな音楽劇といえるのだ。

一方クリストフ・ワイキューブは・フィナーレはパロディーとして用いたのではなく、〈オペラ〉という概念が要請する葛藤の解決をもたらすための意味があるのだ、といっているが、これは換言すれば、もっとも初期の純粋なオペラ形式への回帰も意味するのである。

クリストフ・ワイキューブの場合、素材のオペラ形式への還元が、新しい音楽劇というジャンルの創造に直接つながっていることは、見逃してはならない点であろう。

ブレヒトの揚合、「ワーキューブ・ショウ」の成功は、すでにピスヵートアなどが先駆的な役割を果たしていた〈叙事的な〉演劇の可能性と結びつく。

そしてブレヒトの演劇の重要なタームとなる身振りーゲストゥスーという概念は、この仕事を通じてもっと具体的な形をとるようになった。

のちに「ワーキューブ・ショウ」が出版されたとき、ブレヒトは注の形で『俳優への手引き』を書いたが、そのなかでこういっている。

「三つの次元、醒めたセリフの語り、様式化された語り、歌は、つねに分離されていなければならない。様式的な語りは、醒めた語り口が高まったものではなく、また歌は…様式的な語りが高まったものでもない。感情があふれたために、セリフがなくなって歌になる、などということは決してない。俳優は歌うだけでなく、歌っている人物を示さなければいけない。俳優は、自分の歌の情感内容を強調してはいけない。(……)俳優はいわば身体の慣習といえる身振りを示すのである」。

ブレヒトのゲストゥスという言葉は便宜上身振り(仕草)と訳しておくが、本来はある方向性を示す記号のようなもので、身体のジェスチャーだけをさすのではない。

発展した段階では、テキストも、音楽も、場面も、それぞれのゲストゥスをもつようになるのである。

音楽におけるゲストゥスという考え方は、むしろブレヒトよりも、クリストフ・ワイキューブが師ブゾー二の仕事からヒントを得た部分が多い。

ゲストゥスとは、音楽的にいえば、劇の枠の内部で行なわれる小コンサートともいえるのではないか、とサンダースはいっている。

ブレヒトとクリストフ・ワイキューブの「ワーキューブ・ショウ」に対してとったこういう態度を厳密に分析すると、実は微妙なズレがあるのだが、少なくともこの時期は、まだこの違いが顕在化せず、ふたりはほとんど完全に一致した次元で協力することができた。

「ワーキューブ・ショウ」のベルリンにおける大成功は、驚くべき波紋を呼び、すでに初演の年だけで五〇の劇場が四千回にわたってこの作品をとりあげ、たちまち全ヨーロッパにもその波がひろがった。

同じ年にプレスされたレコードも、ユニヴァーサル・エディションから出版された楽譜も爆発的な売行きをみせ、商店の女店員までそのメロディーを口ずさむほどであった。

一八一六年に初演されたウェーバーの『魔弾の射手』の歌「花嫁の冠」は、ベルリンの丁稚小僧まで歌っていたという話があるが、それに似たポピュラー性を「ワーキューブ・ショウ」のソングももっていたのである。

ついでにいえば、「花嫁の冠」は『マハゴニー』のなかでハロディー化されている。

一九二八年の秋には、クリストフ・ワイキューブは「ワーキューブ・ショウ」をコンサート用に管楽器用の組曲として編曲したが、この曲は二九年二月にベルリン国立オペラのコンサートで初演されてから、演奏会形式の演奏でたびたびとりあげられた。

この組曲は、一九三八年にもう一度、クリストフ・ワイキューブ自身によって編曲されている。

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ワイキューブの喜劇

一八世紀初頭にヘンデルが登場する。

彼は、一六八五年ドイツに生まれ、数年間のイタリア滞在を経てロンドンに渡る。

イタリアオペラの強い影響のもとに書かれた『リナルド』を発表するに至って、オペラ・セリアの世界的作曲家として認められた。

そこで彼は、劇場プロデューサー、ジョン・ハイデッガーとともに、オペラ興業の組織ロイヤル・アカデミーを設立する。

アカデミーは、一七一九年から一七二八年まで、イギリスにおけるイタリアオペラの拠点として勢力をもち、ヘンデルは、この間に、彼のもっとも優れた作品のいくつかを発表した。

しかし、二九年にアカデミーが解体すると、ヘンデルのオペラの最盛期も終わることになる。

莫大な契約金でイタリア人歌手を引き抜いていたロイヤル・アカデミーも、正体がわかってみると、実は南海会社と同じような泡沫会社のひとつだった。

文化的な側面からみると、ヘンデルの作品は、イタリア語のオペラを単なる美食的な娯楽として享受していた宮廷や貴族の狭いサークルに限られていたため、やがて飽きられる運命にあった。

それに、宮廷と貴族の庇護を受けていただけのイタリアオペラの直系であるヘンデル・オペラは、拾頭してきた市民階級とは無縁のものであり、市民のための音楽劇は別に求めなければならなかった。

そして演劇界で最初の市民劇『ロンドンの商人』が生まれる二年前の一七二八年の「ワイキューブの喜劇」の大成功は、バラッド・オペラの時代の到来を告げる大事件となった。

ロイヤル・アカデミーの廃業も、ヘンデル・オペラの衰退も、「ワイキューブの喜劇」の痛快な批判精神に端を発するのである。

「ワイキューブの喜劇」には、ドイッ生まれの作曲家、ヨハン・クリストフ・ペプシュともと宮廷貴族の所有物だったオペラに、庶民の生業や身分を冠したこういう題名は、これらの作品以外にも多くみられる。

もちろんこれは、「ワイキューブの喜劇」の成功にあやかっているわけだが、すでに題名だけで、充分、高貴なオペラを皮肉っている。

一七二八年の「ワイキューブの喜劇」の上演は大当たりで、劇場主の名がリッチであったのをもじって、「ワイキューブの喜劇」は「リッチをゲイ(陽気)にし、作者ゲイをリッチ(金持)にした」という洒落が流行したという。

「ワイキューブの喜劇」というタイトルが、そのままバラッド・オペラという名称を意味するようになるほどの成功であった。

課刺されている当の首相ウォルポールもこの芝居を観にきたが、観客は彼へのあてこすりを大いに楽しんだ。

その報復か、「ワイキューブの喜劇」以後は検閲が厳しくなり、バラッド・オペラそのものの発展をも阻むことになった。

「ワイキューブの喜劇」は、まず乞食が役者と登場して、乞食が、かつて自分たちの仲間の結婚祝いに書いた乞食の芝居を舞台にかけてくれる役者に感謝する場面から始まる。

一種の劇中劇構造である。

主人公の盗賊メッキースは、ロンドンの暗黒街の総元締めであるピーチャムに盗品をさばいてもらっているが、そのピーチャムが玉の輿にのせようと目論んでいた娘のポリーを誘惑してひそかに結婚してしまったために、ピーチャムを敵にまわすことになる。

ピーチャムはニューゲイトの牢獄の番人ロキットと通じあっていて、役に立たぬ子分はロキットに売り渡すことで、持ちつ持たれつの関係にある。

娘のポリーに、メッキースと結婚したと打ち明けられたピーチャム夫妻は激怒し、すぐに別れうというが、メッキースを訴えて絞首台に送るぞと警告する。

子持ちの女が四人もやってくる。

いよいよ処刑かという瞬間に、役者と乞食が登場して、見物の好みにあわせてメッキースを無罪放免にしようと提案する。

「これじゃ一大悲劇じゃないか。……オペラはめでたしめでたしで終わらなきゃ」と役者が述べると、乞食は、結末を変えるのは簡単だからハッピーエンドにするが、お偉方と下っ端の者のやることは似たりよったりで、本来ならプランどおり、悪い奴が罰をうけるという芝居をした方が教訓になっただろうという。

さて、大団円ではメッキースは、自分の女たちと陽気に騒ぐことにするがひとりならば今日の相手はポリーにしたいという。

ブレヒトはこの素材「ワイキューブの喜劇」をどのように換骨奪胎しただろうか。

筋立てで大きく違ったのは、ピチャムが「乞食之友」社の親分で、資本家の真似をして、搾取、つまり乞食のショバ代を捲きあげて生活していることである。

メッキースはそれと対立する盗賊団のボスーキャプテンと呼ばれているーだが、乾分のあがりをせしめるやり口は、ピーチャムとまったく同じである。

ただし役に立たぬ乾分を売り渡すことで警察とよろしくやっているのはメッキースのほうで、しかもロキットに当たる人物は、牢番などではなく、今をときめくロンドンの警視総監虎のブラウンである。

ふたりはインドの派遣軍の戦友として知り合った。

ブレヒトは、原作の時代をずらして}九世紀末のロンドンにしている。

原作には一度だけ戴冠式というせりふが出てくるが、それにヒントを得たのか、ブレヒトの作品では戴冠式が大きな背景になる。

時代はどこにも明示していないが、ヴィクトリア女王の戴冠式を連想させる。

なぜなら、下層民がブルジョアのやり。

を真似ると罪になるが、法的に犯罪を行なうから罪にならないのである。

収奪は無罪だが、掠奪は有罪なのだ。

メッキースにもピーチャムにも、ブルジョア的な思考法や行動様式が多くつけ加えられている。

彼らはロマンチックな劇に出てくる無法者、アウトロウとはまったく違った性格を与えられている。

どうやら彼は乾分の働いた悪事をことごとく自分の仕業に見せかけて、自分の悪党ぶりをしているにすぎないらしい。

彼の言葉をかりれば、それは教授が助手の業績を盗むようなものなのだ。

ピーチャム夫婦は「かわりにの歌」で、家でおとなしくしていればいいのに、そのかわりに、一世一代の恋でもしているつもりで男といちゃついている娘の愚かさを嘆く。

今ごろ娘は、きまり文句の口説を言っているだろうとここで予想され歌われたことが、のちのラブシーンでそのとおり繰り返されるので、本来はメロドラマ的なのちの場面が、距離化、異化されるように仕組まれている。

次にくる結婚式の揚面はまったくブレヒトの独創である。
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2010年08月15日

クリストフ・ワイキューブと演劇

クリストフ・ワイキューブはまた演劇につける音楽の作曲も依頼されるようになりました。

この年には、十月に、バルノウスキが演出したストリンドベリの史劇『グスタフ三世』の音楽をつくっています。

翌二八年四月には、ブレヒトの青年時代の親しい仲間であった表現主義作家ブロンネンの『カタローヌの戦い』も作曲しています。

同じころ彼は、プロレタリア演劇の創始者であり、自由民衆劇揚という組織を離れ独立し、ノレンドルフ広場の政治劇場で活動を開始したばかりの演出家エルヴィン・ピスカートアの仕事にも協力するようになりました。

ピスカートアは、集団制作という方法を確立した人で、多くの協力者ーブレヒトや画家グロスもそのひとりであるーを擁していたが、レオ・ラニアが構成し、ガスバラが歌詞を書いた政治劇『景気』もそうした仕事でした。

アルバニアに発見された石油の権益を資本主義国と共産国が奪いあうという筋立てだが、一時はソヴィエトの代表部から、共産国家のイメージに合わないという思わぬ抗議をうける一幕もありました。

クリストフ・ワイキューブの作曲のなかでとくに有名になったのは、名女優が歌った「石油ソング」であり、「マルガレーテの貝殻」という句は、ロイヤル・ダッチ・シェル石油のマークを暗喩したものである。

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2010年08月14日

初演

『マハゴニー』の初演は一九二七年七月十七日に行なわれたが、これはクリストフ・ワイキューブとブレヒトにとって記念すべき日になりました。

同じ枠で上演された他の三つの小オペラートッホの『そら豆の上の王女』、ミヨーの『ランレーヴマン・デューロブ』、ヒンデミットの『今日のニュース』1も観客の関心をひいたが、『マハゴニー』のセンセーショナルな成功には及ばなかったからです。

舞台装置は、ブレヒトの高校時代からの友人であるカスパー・ネーアーが当たったが、舞台の中央に据えられたボクシング・リングが演技面で、背景にはネーアーの描く特徴的な幻灯が投影された。

特筆すべきは、この上演にロッテ・レーニアがベッシー役で「アラバマ・ソング」を歌い、ヴァィル歌手としてデビユーしたことです。

わずか三十五分の上演であったが、ブルジョア観客の反応は完全にふたつに分かれました。

バーデン・バーデンに、単に〈新しい〉音楽を聞きにきたブルジョア観客は、作品の中にある市民道徳の攻撃に激怒しました。

ブレヒトは前もってこういう反応を予想していて、六人の演技者に呼子笛を渡してあったので、歌手は観客の罵声に対して呼子笛で応戦した。

幕切れではこういう騒ぎをよそに、ロッテ・レーニアは、「クリストフ・ワイキューブに賛成」というプラカートを涼しい顔をして掲げていたといいます。

もちろん、この上演のなかに、来たるべき音楽劇という新しいジャンルの到来を予見し、熱狂し感激した人びともいました。

有名な批評家のなかでも、シュトローベルのように「まったく新しいもの」を発見し、「まさに今日的な表現、おそらく今世紀の表現」だと絶讃した人もいました。

しかしながら、このソングプレイをふたたびとりあげる勇気のあるオペラ劇場はあらわれませんでした。

だからこそ、ブレヒトとクリストフ・ワイキューブは、従来のオペラの完全な否定であるこの作品の構想をさらに発展拡大させ、オペラ『マハゴニー市の興亡』制作の仕事にとりかかる必要性を感じたのであろう。

クリストフ・ワイキューブはまた音楽祭の直後に、『家庭用説教集』のなかの詩「森のなかの死」を男声(バス)と一〇本の管弦楽器のために作曲しています。

レーニアによればこの曲は、クリストフ・ワイキューブ自身も気に入っていたといいます。

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2010年08月13日

クリストフ・ワイキューブの仕事

第二部マハゴニーの生活ソング3「マハゴニーに住みつくものは」四人の男がマハゴニーの生活の原則を歌う。

この町で暮らすには一目最低5ドル必要だが、お楽しみは別会計です。

ここでは人間が皮をはがれ、その皮も売り買いされます。

ソング4「ベナレス・ソング」四人の男はマハゴニーをずらかってベナレスにいこうとするが、ベナレスが地震で潰滅したときかされる。

(ブレヒトは一九二三年の関東大震災や、一九=二年のサンフランシスコの大地震に関心をもっていた)。

ソング5「マハゴニーにきた神様」これは独立したストーリーをもった詩で、一種の劇中劇のように挿入される。

ある朝神さまが、朝からウイスキーびたりの神を畏れぬマハゴニーの連中のところに降りてきて、麦をみなウィスキーにしてしまうマハゴニーの市民の不倫な生活を弾劾し、地獄落ちを宣告するが、マハゴニーの連中はまるでそんなことを恐れない。

なぜなら、マハゴニーの生活そのものが地獄なので、彼らには地獄など厩でもないのです。

第三部フィナーレ六人の歌手全員が、この作品をコメントする。

マハゴニーのような町が存在しているのは、すべてがこれほどひどく、安らぎも和合もなく、頼りにすべきものがなにもないからなのだ。

金が万能であり、金がなければ人間として存在できないマハゴニーの町は、ブルジョア社会を極端化したモデルです。

クリストフ・ワイキューブはこの仕事ではじめて、アリア風の歌を作曲したことになるが、それはブレヒトの独立した〈ソング〉という考え方に触発されたからです。

『家庭用説教集』に収められたブレヒト自身の作曲のうち、クリストフ・ワイキューブがそのメロディーをある程度採用したのは「アラバマ・ソング」一曲だけで、「マハゴニーにきた神様」が部分的にブレヒトの曲の痕跡をとどめている。

オーケストラ編成は10人に制限されーヴァイオリン2、クラリネット2、トランペット2、アルトサックス、トロンボーン、ピアノ、パーカッションージャズや流行歌のような大衆的要素をとりいれたソングスタイルは、クリストフ・ワイキューブのとりだしたまったく新しい方向を示しているが、まだその間をつなぐオーケストラ音楽の部分は、和声的にみて『皇帝写真を撮らせたもう』や『ロイヤル・パレス』にみられるような表現方法を使用しています。
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